第1項 実力至上主義の牢獄へようこそ。9月の残暑が残る星華芸術学園、地区大会前の殺気立つ朝
第1章 底辺裏方の無自覚な神サポート
第1節 伝説のプロデューサーの孫娘は、今日もマイペースに裏方をこなす
第1項 実力至上主義の牢獄へようこそ。9月の残暑が残る星華芸術学園、地区大会前の殺気立つ朝
ジリジリと肌を焼くような残暑と、喉の奥を掠める秋特有の乾いた風。
九月上旬の朝七時半。夏休みが明けて間もないというのに、空を突き刺すような蝉の鳴き声は、どこか焦燥感を煽るように響いていた。
「ねぇ、昨日の通し稽古どうだった? 私、プレッシャーで全然眠れなくて……」
「やばいよ。あと三週間で地区大会なのに、第二幕のセリフが飛びそうで怖い」
「ここで負けたら、私たちの一年は終わりなんだよ!? 気合い入れなさいよ!」
豪華な洋館のような設えを誇る『星華芸術学園』の正門。
日本最高峰の舞台芸術の名門校であるこの場所は、今、目に見えない巨大な牢獄のような空気に包まれていた。
高校演劇の全国大会――通称『総文祭』。
そこに出場し、優秀な成績を収めることこそが、この実力至上主義の学園における絶対の至上命題だ。
特に九月末に行われる地区大会は、全国へと続く長く険しい道のりの最初の関門であり、ここで敗退すれば一年間の努力がすべて無に帰す。
すれ違う生徒たちの目には、異常なまでの焦燥感と、極限のプレッシャーによる疲労が色濃く張り付いていた。
そんな殺気立つ生徒たちの波を縫うようにして、一人の少女が歩いている。
日向陽和。高校二年生。
少し癖のある柔らかい栗色の髪を後ろで緩くまとめ、指定の制服をきっちりと着込んだ小柄な少女だ。
手には、パンパンに膨らんだ大きなキャンバス地のトートバッグを提げている。
周りを歩く未来のスター候補たちと比べると、どこまでも地味で、目立たない存在だった。
「……ねえ、あの子」
「ああ、舞台制作科の裏方専攻でしょ?」
「信じらんない。こんな時期に、あんなのんきな顔して歩けるなんて」
「そりゃあね。表舞台に立てない負け組には、私たちのプレッシャーなんて分からないわよ」
「目立つ才能がない落ちこぼれの集まりだもんね。裏方なんて、誰にでもできる雑用係じゃん」
すれ違いざまに投げつけられる、俳優科の生徒たちからの冷ややかな視線と心無い囁き。
星華芸術学園において、スポットライトを浴びない「裏方」は、底辺の落ちこぼれとして見下される傾向にあった。
だが――。
(うーん。今日の乾燥具合なら、やっぱりペパーミントを少し強めにしたほうがいいかなぁ)
当の陽和は、そんな悪意のこもった言葉をBGM程度にしか受け取っていなかった。
表情を曇らせることもなく、凪いだ琥珀色の瞳で前だけを見て歩き続ける。
(まぁ、皆さんの言う通りだしね)
陽和は心の中で小さく頷く。
自分には、何千人もの観客を魅了するような華やかな才能も、舞台の中心で輝くようなオーラもない。それは陽和自身が一番よく分かっていた。
けれど、それにコンプレックスを抱いているわけではない。
むしろ、血を吐くような努力をして、プレッシャーに胃を痛めながらトップを争うこの学園の狂騒から、一歩引いた裏方の立ち位置を心地よいとすら感じていた。
「おっと、いけない。早く行かないと」
陽和は、他の生徒たちが向かう華やかな新校舎や教室には目もくれず、薄暗い旧校舎へと足を踏み入れた。
どこからか自主練の発声練習が聞こえてくるピリついた空間を抜け、学園の最奥へと向かう。
目的地は、自分の教室ではない。
陽和が毎朝一番に向かうのは、静かな『保健室』だった。
(今日も一日、みんなが怪我なく笑顔で舞台に立てますように)
トートバッグの中で、ガラス瓶に入ったハーブたちがカチャリと心地よい音を立てた。
底辺裏方と嘲笑われる少女の、誰にも知られない、しかし誰よりも尊い一日が始まろうとしていた。




