第一章第二節「名を継ぐもの」
階段を下りると、宿屋の一階はまだ薄暗かった。
静まりかえった宿屋の廊下を、他の客を起こさないよう足音を抑えつつ、リアムは裏口へと向かう。
厨房にも人の気配はなかったが、暖炉にはすでに火が入っているのか、ほのかに薪の香りが漂っている。
裏口の扉を開けると、春先とは思えないほど冷たい空気が肌を刺し、思わず肩がすくんだ。
「お早いお目覚めで」
扉を出てすぐの所で、宿の主人に声をかけられた。
どうやら仕入れから戻ってきたところらしく、大ぶりな木箱を二つ、胸の前でしっかりと抱えている。
「おはようございます。昨夜はよく眠れました」
リアムが挨拶を返すと、主人はにこやかに笑い、「そいつは結構」と軽くうなずいた。
「お連れの方もお目覚めで? お部屋にお湯でもお持ちしましょうか」
「あ、お願いします」
リアムが答えると、主人は静かに微笑むと、そのまま裏口から宿の中へと戻っていった。
その背を見送って、リアムは井戸に向かった。
水桶でくみあげた水をそばの桶に移し、手を浸す。井戸の水は朝の空気よりはるかに冷たく、手がたちまち赤く染まった。一度ためらい、それから意を決して、リアムは勢いよく顔に冷水を浴びせた。
頬を伝った水滴が、あごに達して滴り落ちる。
冷たい水に打たれたせいか、ぼんやりしていた思考がわずかに晴れた気がした。
持ってきた布で顔を拭きながら、リアムは深く息をつく。
冷えて晴れてきた頭とは裏腹に、胸の奥はまだじんわりと重さが残っている。夢の残滓が、まだどこかに貼りついていた。
――ティナ。
夢に出てきた少女。
六年も前に亡くした、俺の幼なじみだ。
親もなく、家もなかった十二歳の俺にとって、彼女は唯一の家族だった。
俺のファミリーネームである「ルミナリエ」は、元々彼女――ティナ・ルミナリエの姓だった。
もっとも、それが本当に彼女の本当の名だったかは分からない。もしかしたら、彼女自身が勝手に名乗ってただけなのかもしれないけど――。
それでも、彼女はその名前を俺に分けてくれた。
――あなたは今日から、リアム・ルミナリエね!
記憶の奥底から、あの無邪気な声が鮮明によみがえる。
こみ上げてくる胸の痛みに、リアムは服の上から胸元を押さえた。
深呼吸をひとつ。
冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、胸の奥に残った熱を抑え込む。
誰のせいでもない。あれは事故だった。
誰も悪くはない――それはわかってる。
――置いていかないで……。
ドクン、と胸が鳴る。
夢の中のあの言葉に、頬を打たれたような気がした。
痺れたように感覚が遠くなった自分の手に目を落とす。
その手は、小刻みに震えていた。
(俺は……彼女を置いていこうとしているんだろうか)
手を握り締める。震えは止まらない。
あの日、最後に彼女がどんな顔をしていたか、俺は知らない。
彼女が駆けていった先で、炎が上がり、地面が揺れて、人々の悲鳴が聞こえた。
殴られて転がった視界の先で、もう一度、火柱が上がるのが見えた。
石造りで堅牢だったはずの建物が、ちょっとバランスを崩しただけだというように傾いて――そのままあっけなく崩れ落ちた。
濡らした布を固く絞り、目に当てる。
叫びたくなる衝動を抑えて、リアムは顔を乱暴にこすった。