第一章第一節「残り火」
「……っ!」
リアムは息を呑んで目を覚ました。
呼吸が荒い。胸が痛い。
心臓は強く鳴り響き、口はカラカラに乾いていた。
頬には冷や汗が伝い、背中もじっとりと濡れている。
「…………」
体の力を抜く。
どうやらどこかの室内にいるらしく、視界にはどこかの天井が映っていた。ほの暗い室内で、天井の板材が静かにこちらを見返している。
しばらく、動けなかった。夢の残滓が喉の奥に貼りついたままで、離れる気配がない。
彼女の――ティナの顔が、崩れ落ちる木組みの音が、焼けた空気の匂いまでもが、はっきりと脳裏に残っていた。
――まただ。
また、あの夢だ。
リアムはゆっくりと、軋むベッドから身を起こす。
ここは宿屋の一室。昨日、ようやく街道沿いの小さな街に着き、泊まった場所だ。
素朴なつくりの部屋。白く塗られた漆喰の壁、木枠の窓。
乾いた藁の匂いが、寝台の布団からかすかに立ち上っている。
まだ寝静まっている宿屋に、他に音はしない。
夢の中の光景とは、まるで正反対だ。
けれど、焼きついた記憶は、現実よりも濃くリアムの中に貼りついている。6年も前の出来事なのに、未だに抜け落ちてはくれない。
ベッドの端に腰を下ろしたまま、手のひらで顔をぬぐう。
まだ胸が痛い。油断すれば、声に出てしまいそうだ。
「……目が覚めたのね」
背後から、落ち着いた女の声がした。
ドクン、と鼓動が鳴る。
振り返らずとも分かる。
その声音には、感情がほとんど乗っていない。ただ、わずかな気遣いの色が、言葉の選び方の中ににじんでいた。
「……起きてたんだな」
リアムはようやく声を返し、わざとらしく伸びをした。
声の震えは誤魔化したが、もしかしたら湿り気は誤魔化せていないかもしれない。
振り向いた先に、女性が一人いた。
見た感じで言うなら年の頃は20かもう少し上。麻布の上衣に綿のズボンという飾り気のないインナーに、普段使いのごついブーツ。いつもは丁寧に編んでいる癖のある赤毛が、今はほどけ、ところどころ跳ねている。
横顔は涼やかで、けれど、どこか近寄りがたい空気をまとっていた。
6年前のあの事件から先、妙な縁で旅を共にしているエレシア・ヴァレンティンだ。
彼女はどうやら荷物の整理をしていたようで、ベッドの上にはきちんと畳まれた服、部屋の隅に整えられたいくつもの道具袋が置かれていた。
その並び方は整然としていて、彼女の几帳面な性格を物語っている。
「うなされてたようだけど……水、いる?」
エレシアがこちらを見て言った。
「いいよ、自分で汲むから」
答えつつ、リアムは立ち上がって反対に窓辺へ向かう。
水は樽ジョッキに入れて部屋の入り口においてある。……今は彼女に顔を間近で見られたくなかった。
木枠の雨戸から閂を外し、きぃ、と軋む音を立てて開け放つ。
冷えた早朝の空気が一気に室内に流れ込んできた。
眼下には、まだ目覚め切っていない街が広がっていた。
家々の屋根が折り重なるように並び、湿り気を帯びた瓦が、鈍い灰色に沈んでいる。窓の下を走る長い石畳の道は、まだ薄暗く、しんと静まっていて、人影もない。通りは奥に行くにつれてゆるやかに曲がり、家々の屋根の間から、教会の尖塔が顔をのぞかせていた。
白み始めた空を背景に、その尖った影は、まるで眠る街を見下ろしているようだった。
朝日は、まださしていない。
鐘が鳴る前の時間。けれど、尖塔だけは、すでに目を覚ましているようだった。
――今日は晴れそうだ。
リアムはいつもの癖でそう思った。
「ずいぶん……うなされていたわ」
エレシアのためらいがちな声が、すぐ背後から届いた。どうやら気づかないうちに歩み寄っていたらしい。
距離が近いせいか、その落ち着いた口調の奥に、かすかな戸惑いの色がにじんでいるのがわかった。
リアムは静かに振り返り、彼女の顔を見る。
いつもの冷静な表情だ。だけど、顔を見返した時に、その目がわずかに揺れたのを、リアムは見逃さなかった。
彼女なりに、気遣ってくれているのだろう。
……だけど、自分の見た夢を、彼女にだけは知られたくなかった。
「ただの夢さ。大したもんじゃないよ」
「……そう」
それきり、会話は途切れた。
やがてエレシアが振り返り、静かに部屋の奥に戻っていく。
リアムは視線を外し、再び窓の方へ目を向けた。
尖塔の端に、朝日がかかり始めていた。
窓辺に寄りかかりながら、リアムは薄く息を吐く。
エレシアの何気ない言葉は、思ったより心に刺さっていた。
けれど、それを口には出せない。言葉にしたら、二人の間に溝ができる。
ティナの悪夢にうなされていることは、彼女にだけは知られるわけにはいかなかった。