第8話
「え――」
それが初めて聞いた少女の第一声だった。それまで他人事のようだった顔つきは、年頃の少女らしくきょとんと目と口を丸くし、これまた呆けた声を漏らす。
そのときにはもうアラインは少女を抱え、前方の分水路に飛び込んでいた。遅れて上って来た隊員の一人が、一緒に来た仲間に急いで新たな指示を出す。
「水の中だ! 射撃用意――うわああぁあ!?」
命令をしたのも束の間、後ろの植物園の天井が崩れながら迫ると、それに気づいた隊員たちは悲鳴を上げながら階段を駆け下りて、急いで来た道を戻った。
たちまち植物園が瓦礫と化すと、最早逃亡者を捕まえるどころの騒ぎではなかった。各所から野次馬が集まり、避難者が植物園のあった建築物から離れると、それまでアラインを追っていた部隊はやむを得ず救助や警備に駆り出される。
徐々に隊員たちの頭から逃亡者の姿が薄れて行く一方、分水路に飛び込んだアラインはというと、今まさに激しくうねる波に翻弄されていた。
「ぶっ、がぼ! ……げほっ、げほげぼ! ちくしょ――」
冷たい激流が水中で四方から激突する度に、アラインは顔にかかる飛沫に奮闘しながら悪態をついた。そして水面が荒々しい理由を悟り、一人歯噛みする。
(ああ、そういえば昨日は雨だったか……。どうりで流れが強いわけだ)
アラインの考えた通り、この日、川の水量は平常と比べて増加していた。各地の水路の勢いは激しく、それが一点に集中すれば、執着地点が波打つのは自明の理。
自然の驚異に奮闘しながら、アラインは分水路の奥のトンネルを一瞥する。
(前に設置した『因果歪曲計』は、確かあの中に――ああくそっ、流れが激しくて思うように動けない! せめてあそこまで行ければ)
(使えばまた幻覚を見るかもしれない……けど、今はそんなこと言ってられない!)
目標を見定めるとアラインは賭けに出る。
先刻の酷い吐き気と幻覚を頭から振り払うと、意識を集中して、もう一度因果の可視化を試みた。途端に能力発動の兆しを覚える。
それ以降、能力が開花することはなかった。
(因果が見えない!? さっきはあんな強烈に映ったのに、なんで今度は一切の流れが)
「流れに逆らおうとするから余計苦しいんじゃない?」
土壇場のスランプに絶望し、息継ぎも忘れて水に沈みかけていたときだった。すぐ隣から冷静に諭されると、アラインはギョッとして振り向く。
「体に力を入れないって教えてくれたのに、自分で忘れちゃったの?」
いつの間にかアラインの拘束から脱していた少女が、優雅に水面を泳ぎながら、不思議なものを見るような様子でアラインに言い聞かせた。
厳密には、少女は水流に身を任せていた。当然この荒々しい水中だ、五体満足と言うわけではない。波打った飛沫は頻りに少女の顔を濡らして口に入り、首から下は常に全方向からの水の体当たりで上手く姿勢が保てず、何度もひっくり返りそうになる。
それでも激流の渦中とは思えぬほど安定し、溺れる予感は微塵も感じさせなかった。
「お、おま! いつの間に離れ――ぁ?」
高ぶりかけた感情はそれ以上上がることなく、それどころか突然気が遠退いてアラインは脱力した。意識が肉体から乖離する感覚に視界が徐々に暗くなる。
(やべ、意識が……まあそりゃ変な幻覚で眩暈したのに、銃で撃たれた上に、走るわ血を流すわ、冷水に急に飛び込むわ息できないわ。意識も朦朧とするか……)
頭がくらくらすると一周回ってどこか他人事に思え、むしろ落ち着いて思考できた。かと言って現状から脱する気力も残っておらず、ぼんやりとそんなことを考える。
度数の合わない眼鏡のように視界が霞む。幾度か世界が明滅を繰り返すと、次の瞬間、まさにアラインが目指していたトンネルが目前に迫った。
(あ、れ……? いつの間に俺、ここまで泳いで……? まあでも狙い通りの場所だし、細かいことは別にいい、かぁ……)
ダメージを受け過ぎたアラインの肉体は限界間近で、判断能力が失われていた。最早考えることすら億劫になると、もうどうにでもなれと流れに身を任せる。
何度か視界が暗転した。電気が消されると薄暗闇の中にゴツゴツした岸壁とヌメヌメした泥や苔が、二度目の点滅ではトビケラの群れが頭上を飛び交い、三度目で見覚えのあるプロペラとセーフポイントを示す風見鶏型の『因果歪曲計』を認め、やがて叩きつけるような水音が遠くから聞える。
徐々に光明が世界を照らし出したことを漠然と察知したとき、アラインは己が出口の土管から放り出されたことを理解した。流れ出た水と一緒に高所から下の水面に全身を叩きつけられるのを感じると、水中に体が沈んでいくことがわかる。
なにかに引っ張られて体が浮上した。疲労でほとんど閉じかけていた瞼を開ければ、薄目の先で、見覚えのある影が自分を陸地に引きずっている。
そこから先は夢を見ているようだった。意識の外から声が響いて来たかと思えば、自分を引っ張っていた人物がフレームアウトして、新しく現れた人影が仰向けの視界の中で代わる代わるにこちらを覗き、慌てた様子で何事か叫んでいる。
よく見れば、そのどれもが見知った人相だった。ついには時計塔の近くで別れたはずの相棒までが、口づけする勢いで真っ青な表情を近づけるではないか。
(なんだ、走馬灯か? 思い出すならもっと他にいいものあるだろ……なんで死に際に野郎の顔面を至近距離で拝まないといけないんだ……)
抗議したいほどの心残りを感じて、アラインは最後の力を振り絞って男性陣から顔を背ける。すると天地の逆転した先に、ずぶ濡れになった少女を発見した。
疲労困憊の様子で少女は肩を上下させている。あの冷たい激流に身を晒していたのだ、体力もかなり削られたことだろう。
(無事だったのか、よかった。逃げるためとはいえ、変なことに巻き込んで悪いことしたな。なにかお詫びを、入れない、と……――)
湧き上がる謝意にどう申し開きをしようかと頭を巡らせていると、徐々に蓄積する泥のような眠気に意識を圧迫され、そのままアラインは失神した。