第6話
彼女が頭上から迫る気配に気づいたときには、降ってきた影はすでに植物園の天井を貫き、侵入者の介入を許していた。
粉々に砕けたガラス片は、鋭くて繊細な残響とともに四方にぶちまけられると、鋭利な豪雨が植物園一帯に叩きつけられる。
落下した人影は鬱蒼と茂った木々の密集地帯に埋もれると、幾度も枝の折れる音を響かせながら、緑地の中心へと消えた。
それまで和やかな沈黙を守っていた小さな密林は、途端に膨れ上がる勢いで鳥や虫たちが飛び立ち、周囲は無数の羽音と草木の擦れる音で支配された。
少し離れた花壇にしゃがみ込んでいた少女は、一部始終を目撃するや、お告げでも受けたかのような勢いで立ち上がる。そして慌ただしい足取りで現場に急行した。
数分とかからないうちに少女は目的地に着いた。それこそ天の導きに誘われるような容易さで、見事に騒ぎの真っただ中へと至る。
なんてことはない。今なお少女を掠めて逃げる鳥や虫たちが離れていく方向、木々の間を通り抜ける風、そして頭上で割れているガラス天井の位置を見れば、だいたいの落下地点は簡単に予想がついた。
あとは女の直感と運に身を任せれば、すぐに折れた木の枝や割れた破片の真ん中で倒れている青年を見つけられる。
遠目に見た感じだと、体に大きな損傷は見られなかった。落ちる途中で何度も木の枝に引っかかったことと、下が土と草のクッションだったことが幸いしたのだろう。
だが何本もの樹木を丸ごと覆うほどの高さだ。例え落下時の衝撃が緩和されても、打ち所が悪ければ無事では済まない。青年も変わらず沈黙していた。
取り敢えず状況を確認しようと、少女は用心しながら相手に近づく。
『ここで』
『なにをしてる』
奇妙な音声に少女が背後を振り返ったときだった。倒れていた青年に背を向けた直後、今度は逆に青年側へと少女は体を引っ張られ、喉元になにかを突きつけられる。
顔を上げれば、さっきまで倒れていたはずの青年――フードの下で苦痛に顔を歪めるアラインが、己の体に腕を回して引き寄せていた。
その手中には先の尖った工具が握られており、凶器としての扱いに慣れていない手は小刻みに震えている。それでもどうにか少女の首に狙いを定めていた。
そんな行動と心情が伴っていない様子に、対する少女は物怖じするどころか、いつも眠たげなタレ目を少しだけ持ち上げると、興味深げに工具を見つめる。
「コラ、誰かいるのか!? ここは立ち入り禁止だぞ!」
騒ぎを聞きつけた警備員たちが木々の間から現れる。そして凶器を持った侵入者と人質の少女を見て硬直した。同様にアラインも警備員たち側にいる異端に気圧される。
その視線の先には、頭全体をヘルメットのシールド部分で覆った、執事服をまとう長身の人物がいた。先程奇妙な声を発した張本人である。
目測でも身長は優に2メートルを超えており、すらりとした手足や胴体や股下は当然のこと、白い手袋をした指先までも木の枝のように細長い。新品同然に光沢を放つ革靴も、見たことないほど大きなサイズだ。
ウエストは黒光りしたシールドの頭部と同じくらい細い。肉づきの悪いひょろりとしたモデル体形は、子どもがぶつかっただけでも簡単に折れてしまいそうである。
にもかかわらず、その全身から醸す禍々しさは凄まじかった。
頭部がメタリックなことも相まってか、姿勢のいい佇まいは、そのもやしのような細身に眠る底知れぬ力強さを彷彿とさせ、隙のない井出達からは熟練者独特のオーラが感じられる。加えてこちらを発見したときの奇怪な肉声。
(なんだったんだ、今のは……声が二つ聞こえたはずなのに、一人だけ?)
正面からかけられた『ここで』と『なにをしてる』という呼びかけは、確かに別々の声帯から発された言葉だった。数からして少なくとも二人の人物がこの場にいたはず。
それがどうしたことだろう。少女を人質に取ったときには執事しかおらず、警備員たちもあとから来たのを目撃した。故に後者たちは除外される。
であれば考えられる可能性は一つ。二つの声は執事から発声されたものだ。また先程の肉声には、執事独特のトーンがあり、自分たちとは別の存在であることが窺える。
(あれは人……なのか? 声だって録音した音声みたいだったし……どっちにしても、まともにやりあったらヤバそうだな)
ここまで違和感が揃えば、わざわざ因果を映す目を使わずとも、執事が華奢な体躯だからと舐めてかかれば、確実にやられることが本能的にわかった。
よく見れば襟から見える首元もシールドに包まれており、肌が露出している部分が見当たらない。まるで人間味が感じられず、増々得体の知れぬ相手への警戒心が高まった。
だが幸いかな、こちらには人質がいる。
(この子には怖い思いをさせて悪いけど、ちょっとだけ利用させてもらおう)
とても姑息な手段で、見知らぬ少女にも迷惑を被るが、これも生き残るため。
そう自分に言い訳をして正当化したアラインの自尊心は、刹那に打ち砕かれた。
警備員たちが少女の安全を考慮して足踏みする中、執事は悠然と一歩踏み出す。