第34話 デイス
耳鳴りを覚えたのは、逃げている最中のことだった。
いや、厳密には耳鳴りではない。頭の中に直接響くような、悲鳴に近い音のようだった。
ようだったというのは、そこからは感情の起伏というものが感じられず、常に限界ギリギリの状態で狂ったように響いてくるから、便宜上は悲鳴と例えたのである。
「なに、この悲しそうな……声?」
普段なら絶対に怪しげなところには近づかないユウであったが、今回は逃げているという理由から、敢えてそちらに行った方がいいような気がした。なにより今は自身の幸運体質が味方についている。なので多少の危険ならば大丈夫だろうと踏んだのだ。
それに、この音が誰かに助けを呼んでいるような気がして、放っておけなかった。
その耳鳴りが聞こえたのは、ユウが逃げて来た方とは正反対の方向、つまり今ユウが逃げている方向から聞えてきた。どの道行き場がなかったユウは、どうせ逃げるなら他に困っている人を助けるのもいいだろうと思い、耳鳴りのする方へと走った。
耳鳴りは距離が縮まるにつれて大きくなっていった。周囲の景色も、自分の隔離されているところから離れて一時的に宮殿の中っぽい内装がしばらくは続いていたが、反対側に行くにつれてユウが隔離されていたところと似たような様式に近づいて行った。
最初こそ耳鳴り程度に聞えていた悲鳴は、距離が近づくごとに耳を塞ぎたくなるほどの調子にまでなっていた。実際にユウは耳を塞いだが、音は鼓膜を貫通して直接脳を揺さぶるので、どうすることもできなかった。
一瞬ユウの胸に、これ以上は近づかない方がいいか、という疑問が沸いた。すると本能が答える、この悲鳴は助けを求めているだけだから危険なことはないよ、と。
結論が出ると、ユウは俄然やる気になって走った。気づけば周囲の景色は完全に宮殿らしさを欠いており、駆動音の響く機械室のような重苦しい空気に包まれている。
「宮殿内にこんな場所あったんだ……」
普段隔離されていたユウは、自分がいた場所が宮殿であることを初めて知ったのが数日前であり、自分がいた場所と似たところがあるのを知ったのも初めてだった。
どこに向かえばいいのかはわかっていた。聞こえてくる悲鳴を頼りにすればいいのと、この空間自体がユウのいた場所と鏡映しみたいな作りになっていたことから、自然とルートを見出せたのである。
一つ違かったのは、位置的にユウの部屋があった場所に、違うものが置かれていたことだ。
天井が見えないほど高く、その先は真っ暗な闇しか広がらない先から、薄いカーテンが吊り下げられており、ユウの目の前に何重にも重ねられていた。
悲鳴が聞こえて来るのはその先からだった。悲鳴はもはや発狂と化しており、人の出せる叫びではなかった。化物か、壊れた機械が出しているような爆音だ。
直接頭に響いてくるので鼓膜が破れる心配はなかったが、精神の方はかなり擦り減らされた。長い間これを聞いていれば徐々にこちらの正気度が失われ、自分も発狂しそうなほどの不快感がある。
やはり一旦引こうかと悩んだそのとき、不意にフロードとの会話を思い出した。
『まさか……あなたが、『禍の神子』?』
「くわの……しんし」
ユウは呟き、ふと思った。自分が『倖の神巫』であるのならば、それと同じ、あるいは近しい役柄が他にあっても変ではないのではないかと。それに『禍の神子』なんて、明らかに自分の役柄と似通った名前ではないか。なによりもこの場所は、自分が閉じ込められていた空間とほとんど似ている。
そこから導き出される答えは、自分のように隔離された誰かが、もう一人いるのではないかという可能性。
そんな内から湧き出す好奇心のままに、ユウは何層にも重なる薄いカーテンの向こうへと進んでいく。カーテンを避けながら歩いてくと、やがてなにかの影が見えてきた。
最後のカーテンを退かすと、そこには巨大な培養槽が置かれていた。
薄暗かった空間は培養槽から放たれる淡い光りに照らされ、薄っすらと足元を照らす。お陰でユウは明かりを頼りに先へ進むことができた。
先程から響いてくる悲鳴は培養槽の中からだった。ユウは培養槽の近くまで近づくと、円柱のガラスに手を置いて、その中にあるものに釘づけになる。
培養槽の中には、口や全身をホースで繋がれた抜け殻の少年がいた。
皮膚がところどころ破れており、その切れ端が培養槽の中で浮いている。破れた皮膚の間からは綿が覗き、それが普通の人間ではないことを示していた。下半身は腰から下に行けば行くほどボロボロになっており、途中からは千切れてなくなっていた。背中の方にはなにやら怪しい機械が付けられて、直接頭部と脊髄に打ち込まれている。
その目は見開かれており、狂気に満ちた瞳は常に瞳孔が開いていた。その目はどこも見ておらず、ただ虚空をじっと睨みつけている。破れた頬からは食いしばった歯が除き、苦痛に耐えていることが見て取れた。液体に浮かぶ体も強ばって小さく震えており、正気を保とうと全身に限界まで力が入っていることが窺える。
培養槽の中はときおりゴポリと気泡が浮かび上昇していく。少年の足元から照らされる淡い光りはまさに神秘的で、その存在が唯一無二であることを証明していた。
ユウは他にも観察したいことがあったが、ここで限界が来た。少年との距離が近過ぎるせいか、頭の中に響いてくる発狂が限界まで高められ、ユウの頭を激しく搔き乱す。
そんな発狂の中に声を聴いたのは、もう無理だとユウが床に蹲ったときであった。
(だ……れ……?)
発狂の嵐の中、純粋な子どものような思念が脳内に響いてきた。
「あなた……なの? 今、声をかけたのは……?」
突然声をかけられるとユウはバッと顔を上げ、左右と後ろを確認する。だがそこにはユウ以外に誰もいない。とすれば残るはあと一つ。ユウは培養槽を見つめる。
だが聞えた声はすぐに発狂の渦の中に消えてしまう。それはユウの精神まで蝕むほどの嵐だった。それでもなおユウは培養槽の少年に声をかけ続ける。
「あなたは誰なの? どうしてその中にいるの?」
(う、あぁ……)
「わ、私はユウっていうの。他の人からは『倖の神巫』って呼ばれてて」
(ううぅぅ……こう、の?)
「そう。あなたは……もしかして、あなたが『禍の神子』?」
(くわ、く……うぅ。知ら、ない)
聞こえてくる声は全部途切れ途切れだった。それでも少年は一生懸命何かを伝えようと、譫言と一緒に思念を送ってくる。
(わから、ない……。僕は……誰? なにも、覚えて、な……)
「あなたも自分が何者かわからないの? 私も自分が何者かわからなくて」
(うう……あ、あぁぁ)
「? どうしたの? 苦しいの?」
『あまり』
別の肉声が割り込んで来たのはそのときだった。特徴的な響きにユウは振り返る。
『あまりデイスを』
『虐めてやるな』
培養槽の明かりが照らす先、暗闇の中にぼんやりと一つの影が現れる。固有な声音にユウはすぐに自分の執事を思い浮かべるが、すぐに違うと悟ると警戒心を高めた。
やがてその人物は暗闇から現れると姿を見せた。その人物は、見た目は自分の知っている執事と似ているが、着ている服や肉声の違いから、ユウは別人だと判断する。
「スチュ、ワード? ……違う。あなた、誰?」
『私はバトラー』
『『禍の神子』の従僕だ』
バトラーは平坦にそう告げると、ユウの目の前、厳密には培養槽――デイスと言われた少年のところまで来て、ユウの前で立ち止まった。
「従僕……私、『倖の神巫』で言うところのスチュワードみたいなもの?」
ユウがわかりやすく例えると、バトラーはそれに頷く。数回会話してみた感じ、相手から敵意は感じなかった。それをいいことにユウは詳しく聞いてみる。
「デイスって……この子の名前?」
ユウが訪ねるとバトラーは首だけ動かしてデイスを見た。思考しているのか、わずかな間その姿勢のままで動きを止めると、やがて話し出す。
『デイスは皮剥ぎの儀式によって幼少期の帝王から取り除かれた片割れであり』
『そしてその皮膚にダースロウお手製の綿などを詰められた人形だ』
「人形? どうしてこんな状態になってるの? 自分のこともわからないって……」
ユウはバトラーが聞けば答えてくれることに気づくと、もう少し踏み込んでみる。
『『禍の神子』は不幸であり続けることで意味を成す存在』
『快楽は与えないよう常に苦しみを体感し続けている』
バトラーは機械的に答えると、滑らかな動きで培養槽を指差す。
『この培養槽を満たしているのは恐怖と苦痛を増加させる薬品だ』
『この液体に浸かることで『禍の神子』は永遠に苦しみ続けることとなる』
『だがそれも慣れてしまえば苦痛は和らいでいくもの』
『だから定期的に『禍の神子』の記憶を消しているのだ』
「……どういう、こと……?」
反射的にバトラーがなにか恐ろしいことを言っていることに気づいたユウは、その先を知るのが怖いと思いつつも、聞かずにはいられなかった。それにバトラーは答える。
『恐怖や痛みは原初に近いほど新鮮でいい』
『記憶を消すことで常に新鮮な苦痛を味わわせている』
聞かされた真相にユウは絶句した。そして静かに震え上がる。
「つまり、なに……常に一番辛い状態をキープするために、その都度この子の記憶を消してるってこと?」
『苦痛で狂ってしまってはなにも感じることはできなくなってしまう』
『それを防ぐために何度も記憶を消すことで回避しているのだ』
怯えながらユウが聞くと、その通りとバトラーは冷たく機械的な動作で頷いた。
なんの悪気もなく答えたバトラーに、ユウは恐怖を覚えた。なにより、こんな永遠に続く生き地獄の最中にいるデイスを思い、哀れんで涙を滲ませる。
「酷い……どうしてこんな酷いことをするの? あなたはこの子の従者なんでしょ? 主人が苦しんでるのに、どうして助けてあげようとしないの?」
『それが『禍の神子』の役割だからだ』
『それに私が仕える主は一人ではない』
「それってどういう――」
『『倖の』
『神巫』』
会話の途中、第三者の乱入にユウはビクリとした。何者かと振り返ると、そこにはバトラーと同じ姿勢でこちらに来るスチュワードの姿が見える。
「スチュ……ワード……」
今までなら親しみを込めて呼べたその名を、今は上手く口にできなかった。それは偏に、街を破壊しながら闊歩する姿や、アラインを瀕死の目に遭わせたところを見てしまったからである。
『またあの部屋を抜け出したのか』
『いったいどこでそんな悪さを覚えた』
「あ、それは……」
この状況になった理由を話そうとして、ユウはすぐに口を噤んだ。本当のことを喋ってしまえば、今度はフロードに危害が及ぶかもしれない。スチュワードが他人に対して容赦をしないことを知ったのは最近だ。もう誰も傷つくところを見たくない。
ユウはだんまりを決め込むことにした。そのせいでキツイお仕置きが待っていようと話すまいと決めた。それで誰かが傷つくよりはずっといい。
だがここで幸運体質が働いたのか、スチュワードはそれ以上追及しなかった。
『まあいいだろう』
『それよりも準備が先だ』
話が変わるとユウに緊張が走った。怪しげな雰囲気にユウは恐る恐る聞く。
「準備って、なんの?」
『もちろん『倖の神巫』としての準備だ』
『支度があるからこちらに来なさい』
言うとスチュワードは半身に構え、片手を上げるとユウに歩くよう促す。
嫌と言って断れる雰囲気ではなかった。例えここでじっとしていても、すぐにスチュワードに担がれて連れて行かれてしまうだろう。これまでもそうだった。
ユウは観念すると歩き出した。一瞬だけデイスの方を振り返る。
デイスは相変わらず直接頭の中に発狂を響かせながら、肉体は沈黙させたままだった。




