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第31話 邂逅

 それから二人が幸福地帯を抜けるのにかかった日数は2日――聖儀祭9日目だった。

 幸福地帯寄りということもあり、列車は変わらず運航していたが、今回はそれを断念した。アラインの情緒を少しでも安定させてあげたかったユウは、運気の流れに沿えない列車での移動を拒み、好運の『流気(ルーク)』に沿った移動を最優先させたのだ。

 ただでさえ幸福地帯の有様に、アラインは精神的に憔悴しきっている。そこに呪印の症状は弱り目に祟り目が過ぎる。それなら多少は骨を折ってでも遠回りした方が好都合だったのだ。


 なにより、もう日数や居場所にこだわる必要がなくなったから、今は少しでもいい、わずかでも安寧の時が欲しかった。ここまで頑張ってくれたアラインのためにも。

 今アラインとユウは、幸福地帯を通り過ぎ、街からだいぶ離れた岸壁地帯にいた。

 砂漠ほど暑くもないし地面も干乾びてはいないが、代わりに地面が岩で固く水源もたいして見当たらない、周りを岩で囲まれた場所。そんな辺鄙なところでもわずかな癒しとなったのは、周辺を岩で囲まれつつも力強く大地に根を張る草花と、いい意味で人気がまったくなく閑散としており、今のアラインにとって必要な静寂だったところだろう。


「大丈夫アライン? もう少しだけ歩ける?」

「ああ……」


 弱っていることが手に取るようにわかるアラインの肩を支えながら、ユウはもう少しだけ歩を進めるようアラインを誘導する。あともうちょっとだけ進めば、休むのに丁度いい岩陰があった。そこで少し休憩しようと二人で相談したのだ。

 普段ならアラインが前を進み、そのあとをユウがついて行くというスタイルが、今では完全に真逆になり、現在はユウがアラインを先導し、アラインがその歩調に合わせていた。

 食料や飲料は、幸福地帯を通り過ぎてすぐのところにあった、乱闘騒ぎのない落ち着いていた地域で買いだめしたため、危惧するようなことはなかった。それだって、いざとなればユウの幸福体質を使っていかようにもなるのだから、心配の必要もない。

 しかしアラインのメンタルだけは、ユウの幸運体質ではどうにもならなかった。今の状態のアラインを癒せるのは時間だけだ。そのためなら、ユウは残りの日数をこの岸壁地帯で過ごすのもいいと思った。


「着いたよアライン。少し横になる? それとも座る?」

「うん……」


 岩陰に着くとユウはアラインを労わりながら壁際に座らせた。アラインはどちらとも取れない曖昧な返事をしながら背中を壁にくっつけると、そのままズルズルと岩に背中を引きずって、膝を立たせたまま座位の姿勢を取る。


「余裕があるなら少し食べよ。もう長い時間なにも食べてないし……あ、それとも喉乾いた? 待ってて、今水を用意するから」


 なんとかアラインを壁際に座らせると、ユウはほとんど独り言同然でアラインにあれこれ聞きながら献身的に尽くした。

 まずは用意した水筒の水を飲ませてやる。しかし上手く嚥下ができず、わずかに口の端から零れてしまう。続いて食糧を口元に近づけてみた。けれどアラインはまともに口を開けようとはせず、口に突っ込んでも歯に当たってそれ以上先に進まない。


「アライン、ちょっとでもいいから食べないと……。あ、それとも大きかった? じゃあ待ってて、少し小さくしてみるから。それなら食べられるよね?」


 そう言ってユウは足元に小さくシートを広げると、慣れない手つきで食料を小さく切り分け始めた。その間アラインは項垂れたまま、漠然と視線の先にあるものを見る。

 アラインが目にしたのは、ダボダボになっている襟元から覗く鎖骨辺り――未だ呪印の残痕がある己の皮膚だった。

 その残痕に根を張るのは、気味の悪い光沢を放つ硬い鱗。ヌラヌラとテカリ、常人ではありえない光沢を持った呪いの証だった。この2日間、なんとか多幸に沿って進んでいたとはいえ、不幸地帯にいたときや列車での移動で『流気(ルーク)』に沿えなかった分が未だに治まっておらず、治るのに時間がかかっている。


 それをじっと見ていると、不意にドクンと心臓が跳ねる。血走った視界が成長途中である呪印を捕えると動悸がドクドクと早鐘を打ち、アラインの中の正気度を削っていく。やがて視界が灰色に染まってくると、呪印が成長するときのミシミシといった幻聴を捉え、その様子が視線の間で行ったり来たりする。その症状は徐々に加速するとアラインを精神的に追い込んで行き、ついにアラインの我慢は限界値にまで達した。


「う……ぁ……あぁぁぁあぁぁああぁぁあぁぁあっぁぁぁぁぁあぁあ!」


 突然背後から上がった咆哮に、それまで食糧を切り分けていたユウはビクリとして手を止めると、急いで後方を振り返った。そこには半狂乱で自分の襟首を引っ張りながら、もう片方の手で呪印に掴みかかり、皮膚ごと呪印を引っぺがすアラインがいた。


「アライン、ダメぇ!?」


 目を離した隙に自傷行為を始めたアラインにハッとすると、ユウは持っていたナイフを投げ捨て慌てて止めに入った。抱き着くように自身を傷つけている腕にしがみつくと、全身の力を使ってどうにか止めようとする。しかし獣化したアラインの腕力は常時と比べ何倍にも倍増しており、ユウの体重だけでは完全に止め切れなかった。

 尖った爪を呪印の蔓延る皮膚に突き立て、その下に根付いた芯ごと引き剥がすと、血液を撒き散らしながら、その痛みに泣き喚きながら除去作業を続ける。

 次から次へと顔に飛び散ってくる血に染まりながら、ユウは全力でアラインを説得する。


「お願いだから我慢してアライン! 運気に沿ってれば自然と鱗も消えるから! 辛くても今は耐えて!」


 全力でアラインを止めにかかりながら、声の限りユウは叫ぶ。だがその願いがアラインに届くことはなかった。自然治癒が待てなかったアラインは、依然として絶叫を上げながら呪印を引き剥がしており、自分の血肉に塗れていった。

 そんな状態のアラインでも、我慢ならないことが一つだけあった。それは他人に自身の呪印に触れられること。そして幸か不幸か、ユウの手が呪印にかかる。


「それに触るなあぁぁ!」


 途端にアラインの中に新しい不快感が生まれると、アラインは腕にしがみついているユウごと腕を大きく振り、小さな体躯を前方の壁に思いっきり叩きつけた。


「カッハァ――!?」


 背中から突き抜けるように胸に向かって衝撃が走ると、ユウは唾液を飛ばしながら鋭く息を吐いた。そのまま地面に落ちると、痛みに身を震わせながらアラインを見る。


「アラ……イン?」

「ヴァアアアアアアアアアッ!」


 もはや人間のものではない獣に近い雄叫びを上げると、アラインはキッとユウを睨む。


「……お前の、せいだ」

「え……?」


 いきなり憎悪を向けられると、ユウは困惑して声を漏らした。そんな目の前で混乱しているユウに憚らず、アラインは続ける。


「誰のせいで、こんな姿になってまで苦しい思いをしてると思ってるんだ……全部お前のためだろう! それを、俺の邪魔ばかりしやがって……っ」

「アライン?」

「お前さえいなければ、俺はこんな姿にならずに済ん――」


 言いかけてアラインはハッとする。今自分がなにを口走ろうとしていたのかを自覚して青褪めたのだ。しかし気づいたときには、ほとんど口から出てしまっていた。

 慌ててアラインはユウを見る。そこにはポカンとした顔で、しかし瞳から徐々に光彩を失いかけているユウが、穴のような目でこちらを見ていた。


「違うユウ! 今のは――」


 急いで弁解しようとしたが遅かった。ユウはみるみる目に涙を溜めると、なにかを堪えるようにして岩陰を飛び出して行った。

 そんな後ろ姿を、アラインは呆然としながらただ眺めることしかできなかった。ユウを追いかけることよりも、今自分がなにを言ってしまったのかを確認することの方が重要で、それどころではなかったのだ。


「今、俺はなにを言った? なにを……」


 取り返しのつかないことを口走ってしまった後悔で、アラインは咄嗟に身動きが取れなくなる。だが次の瞬間、すぐにユウを追いかけていればよかったと後悔することとなった。

 それはユウが飛び出してすぐのことだった。程なくして外から小さな悲鳴が上がる。聞き覚えのある声音にアラインはハッとして顔を上げると、すぐに岩陰を飛び出した。

 地を這うようにしてアラインは周囲を見渡す。必要とあらば『(ホルス)』を使ってでもユウを探し出そうとした。しかしその必要はなかった。『(ホルス)』を使わずとも、すぐ近くで見知った影と異形の影を二つ見つける。


 その姿を見つけたのは岸壁を出てすぐのところだった。前方、走ればすぐに辿り着ける距離に後ろ手に捕まったユウと――見覚えのある執事服を発見する。

 二人ともこちらに顔を向けてはいなかった。ユウはスチュワードの方を見ており、スチュワードはユウを……包帯の巻かれたユウの腕を掴んで、じっと観察していた。


『誰』

『に……』


 先に声を発したのはスチュワードだった。例の、まるで二人の人間が別々に話しているかのような独特な喋り方で、ユウの腕を掴んだままユウに尋ねる。


「え?」


 スチュワードの、まるで絶句しているような声色にユウは困惑した。そして初めて自分の包帯塗れの腕のことを聞かれていることに気づくと、再びスチュワードは問いかける。


『その腕は、』

『誰にやられた?』


 ようやくスチュワードが言葉の全貌を明らかにすると、ユウはどう答えたらいいかわからず押し黙った。その間アラインはユウのもとへと駆けつける。


「ユウ!」


 アラインは二人の前に立つとユウを呼んだ。呼ばれたユウはアラインに気づくと、思い出したかのようにそちらを見る。そしてスチュワードもそれに反応した。


『お前』

『が』


 スチュワードは、今度はアラインに語りかけた。再びカタコトに近い独特な喋り方をすると、それまで隠していた殺気を漂わせながらスチュワードは問いかける。


『お前が』

『この腕をやったのか?』


 答えてやる必要性など感じなかった。アラインは即座に指先から糸を出すと、何百にも束ねて槍状にし、スチュワードに向かって思いっきりぶん投げる。

 ユウを庇ってか、スチュワードはすぐにユウを放り出すと、剛速球で自分に向かってきた槍を空いた手で弾き飛ばした。

 その間にアラインは手の甲を相手に向けながら構えを取ると、5本の指先から因果の糸を揺蕩わせ、腕を振り下ろすと同時にスチュワードに向かって放った。

 糸はスチュワードの手足に絡みつくと一瞬操り人形のような姿勢を取る。アラインが目いっぱいの力を込めて両腕をクロスさせると、スチュワードの体は空中で踊ったあと、あらゆる関節から粉砕する音が鳴った。


 だがそれも一瞬。スチュワードは即座に空間に漂う幸の『流気(ルーク)』を吸引すると、一瞬で粉砕された関節を再生する。

 束の間、スチュワードは手足に絡んだ糸を思いっきり手繰り寄せた。

 アラインは一瞬にしてスチュワードの目前まで引っ張られると、そのまま重い打撃を食らって、一気に岩壁まで吹き飛ばされた。アラインは岩壁に背中を叩きつけられると、亀裂の入った岩の隙間から舞い上がった砂塵に塗れ、わずかの間姿を晦ます。


「アライン!」


 背後の岩に亀裂が入るほどの攻撃を受けたアラインを見上げてユウは悲鳴を上げる。しかしその心配はなかった。すぐに砂煙が風に巻かれると、両腕に因果の糸をぐるぐる巻きにして防御の姿勢を取ったアラインが現れた。その背後にはいつの間に作ったのか、背中と岩の間に糸で作ったクッションが1枚挟まれている。

 やがて岩にへばりついていたアラインの体は空中に落ちると、アラインはそのままの姿勢で両手を広げる。途端に両腕に巻かれていた糸が一斉に解け、糸は周辺の岩に巻きついて即座のうちに大量のワイヤートラップを仕掛けた。


 アラインは糸のうちの一つに着地すると、撓む糸の反発力を利用して前に飛び、一直線にスチュワードの懐にまで潜り込み、呪印で硬化した拳で渾身の一撃を叩きこむ。

 次に吹き飛ばされるのはスチュワードの方だった。スチュワードは殴られた勢いのまま岸壁に背中を打ち付けると、ガクンと頭を倒す。

 攻撃はまだ続いていた。アラインは再び両腕を大きくクロスさせる。刹那、スチュワードの頭上に合った岸壁が糸に沿って切断され、瓦礫と化して崩れ落ちてくる。

 轟音を響かせながら切り取られた岩は落石すると、途端にスチュワードを岩で押し潰し、見る見るうちに茶色い塊で姿を消し去って行く。

 そして訪れる沈黙。それも一瞬。次の瞬間には何段にも重なった岩ごと吹き飛ばされ、ほとんど無傷のスチュワードがそこに現れた。


「チィ!」


 まったく攻撃が効いている様子のない敵の姿にアラインは舌打ちをすると、『(ホルス)』を発動させてスチュワードの周りとその周囲に漂う因果の流れを読んだ。次いでワイヤートラップさながらに仕掛けた糸の上をスチュワードを中心に高速で飛び回り、一気に加速する。

 それもただ飛び回っているのではない。スチュワードの周りを飛びながら因果の糸を紡ぐことで相手の周りの多幸の『流気(ルーク)』を極端に薄め、回復できない状況を作り出す。一方で再びスチュワードの全身に糸を這わせて巻きつける。


 スチュワードの周囲の多幸の『流気(ルーク)』がなくなり一種の真空状態となったところで、アラインは着地と同時に因果の糸を思いっきり引っ張った。すると再びスチュワードのすべての関節が粉砕し、フルフェイスの顔面にまで大きくひびが入る。そしてアラインの目論見通り周囲には好運がないため、スチュワードの再生も間に合わない。


「これで――どうだああぁぁ!」


 超加速したアラインは吠えると、呪印の滲む拳に、今度は因果の糸を巻きつかせて、今自分が出せる全力の一撃をスチュワードにお見舞いした。

 アッパーさながらに叩き込まれた一撃はスチュワードの胸部を砕く。再生の間に合わない胸部はベキベキと音を立てながら粉砕していき――薄幸の『流気(ルーク)』を噴出させる。


「!?」


 突如周囲に蟠った不幸の因果にアラインは絶句した。その隙にスチュワードが腹の辺りに拳を突き出してくる。アラインは咄嗟に糸でクッションを作り受け止める準備をした。

 スチュワードの一撃はクッションを突き破ると、そのままアラインの腹を貫いた。


「ゲボオォ!?」


 腹から背中に向かってスチュワードの拳が貫通すると、アラインは吐血と一緒に吐瀉物をぶちまけた。吐かれた血はスチュワードの顔面に降りかかる。

 瞬く間にアラインが戦闘不能になると、スチュワードはアラインの肩を掴み、腹から自身の腕を引き抜きかけ、拳が腹の中に納まったところでピタリと動きを止める。それからアラインの腹の中を弄ると、掌いっぱいに掴んだ内臓を一気に引きずり出した。


「ゲァアアアアアアアアアア!?」


 アラインは声にならない咆哮を上げると、バタリと地面に落ちる。しかしスチュワードの手には引きずり出した腸が未だに握られており、それが数本の線となってアラインの腹の中へと繋がっていた。


「ヴォオオオオオオオオオオオオオオ!」


 獣のような咆哮を上げたのはスチュワードだった。それまで冷静だったスチュワードは一気に全身から災厄の『流気(ルーク)』を放出すると全身を膨張させ、ただでさえ筋肉ごと剥がれたとしか思えない肩甲骨の面積をさらに広げ、腰骨もさらに伸ばし、全体的に大きくなる。

 その姿はもはや人形兵器だった。ダクトの蓋のような、生き物の呼吸器官のようなものから不幸の『流気(ルーク)』を目いっぱい吸い込むと、不気味なモーター音を轟かせる。

 スチュワードが内臓ごとアラインを持ち上げたのはそのときだった。スチュワードがアラインの腹からはみ出た腸を引っ張ると、繋がっていたアラインも一緒に引っ張られる。


 瞬間、スチュワードは腸をロープのようにアラインごとグルグルと振り回し、周辺の岸壁に何度も叩きつけた。アラインは激痛の中、内臓がすべて引きずり出されぬように腸を手で押さえているのが精一杯だった。

 だが次にスチュワードがアラインに対して蹴りを放った瞬間、腸ごと引き千切れると、アラインは再び地面に叩きつけられ、そのまま磔のような状態となる。

 スチュワードの猛攻はまだ終わらない。スチュワードは次いでアラインの腕を曲がらない方向に持ち上げた。それだけでアラインの腕は容易く折れ、またアラインは叫ぶ。

 次いで地面に垂れていたもう片方の掌を片足で潰す。その状態で限界まで折った腕を捻じり上げ――アラインの折れた腕を、人形の腕を捥ぐようにして引き千切った。

 それからスチュワードはアラインの頭を鷲掴むと、グッと力を入れて行き――


「もうやめてぇ!」


 ユウが懐に飛び込んできたところで、ようやくスチュワードの動きは止まった。


「お願いもうやめてスチュワード! もう勝負はついてるでしょ!? それ以上はもういいからアラインを離して! お願い!」


 ユウが止めに入ると、ようやくスチュワードも攻撃の手を緩めた。もしあのまま続いていたら、アラインの頭は今ごろ木っ端微塵に粉砕されていたことだろう。

 スチュワードが手を離すと、アラインはドサリと地面に落ちる。ユウは慌ててアラインにしがみつくと、腹に空いた大穴を見て血相を変えた。


「ああ、どうしよう……これ、塞がないと死んじゃう……!」


 瀕死の重体を負ったアラインを前にしてユウは底冷えした。なんとか治療してあげたいがどうすればいいかわからない。そんなユウに救いの言葉が降りてきた。


『そいつはダースロウの血統だ』

『この程度で死ぬことはないだろう』


 声をかけたのはスチュワードだった。


「そう、なの……? こんなに酷い状態でも?」

どう見ても死にかけのアラインを見て、ユウはスチュワードに疑いの目を向ける。

「ダースロウの血統ってなに? そんなんで本当に治るわけ!?」

『ダースロウは不死の者だ』

『その血が半分流れているこいつは簡単には死ねない』

『放っておいても自己修復するだろう』

『今までその場面を見たことはなかったか?』


 言われてユウは思い出す。アラインが何度も自傷行為をしたり傷を負ったとき、時間が経てばアラインの再生能力でどんな傷もたちまち治っていたことを。

 ユウの腕が引っ張られたのはすぐのことだった。スチュワードが動作だけで、こちらに来いと促してくる。ユウはそれに「待って」と告げると、アラインの前に膝をついた。


「ユ、ウ……? ぁあ……ゲホ、ゲッホォ!」

「喋らないでいいよ。私が一方的に話すだけだから」


 酷い傷を負ってなおアラインが起き上がろうとすると、ユウはそれを制して優しく額に手を置いた。それから独り言のように語り出す。


「ごめんねアライン、ここまで引きずり回しちゃって」

「……メだ、ユゥ……そいつ、着いてっちゃ……」


 激痛と屈辱で意識が朦朧とする中、アラインは霞む視界に映ったユウを、息も絶え絶えに呼び止めた。しかしユウはふるふると首を振る。


「本当にもういいの。多分これ以上は、無理だから……」


 なにかを堪えるようにユウは言うと、ギュッと目を閉じた。目の端からは堪えきれなかった涙が頬を伝い、温かな雨がアラインの上に落ちていく。


「それに、誰かが傷つくところを見るの、もう疲れちゃった」


 それは諦めた者が使う言葉だった。ユウは首から下げていたペンデュラムを取ると、アラインの潰された手中に収める。


「これも、もう私には必要ない。私よりももっと似合う誰かにプレゼントしてあげて」


 視界が滲む。それは果たして涙だったのか。それとも単に意識が途切れかけていたからなのか。アラインにはその判断はできなかった。

 ただひとつわかることは、もう間もなく自分の意識が途切れることだけだった。


「ユ……」

「これ以上は、迷惑はかけられないから」


 それが最後の言葉だった。倒れて横向きになった視線の先では、スチュワードに向き直るユウの姿がある。

 スチュワードは軽々とユウを抱え上げると、慣れた仕草で肩に乗せる。それからユウはもう振り返ることはなかった。

 一つ瞬けば二人の背中が映り、二つ瞬けば自分の元を去って行く二つの影が。三つ四つと瞬く度にその影はどんどん遠ざかっていく。


「待っ……ユ……!」


 果たしてその呻きが上手く言葉になったのかも、去って行くユウに聞えたのかもアラインにはわからなかった。ただ確かなことは、今見えている景色の端の方から暗闇が侵食し始め、このまま自分は深い眠りの底に落ちるということだけだった。

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