第30話 幸福地帯
アラインとユウは今、列車の中にいる。この路線は幸福地帯寄りのタームにあるためか、不幸地帯にいたときよりも周囲への地震の影響は小さく、アラインたちは『生贄の門』を超えた先にあった街で運よく列車が動いていたので、楽に移動をすることができた。
途中、窓から見える景色も変わってきた。具体的に言うと、周囲にある民家や店などが少しずつ整っていった。不幸地帯にいたときよりも文化的な社会情勢が窺え、列車に乗ってくる人たちも穏やかな顔をしている人が増えてきた。
今度の列車での移動は平和なものだった。以前現れたどこぞの巨大蜘蛛に襲われることもなく、スムーズに幸福地帯まで向かうことができる。
運がよかったのはそれだけではない。『流気』の流れがいい方向に向かっているためか、アラインの獣化が少しずつ戻っていったのだ。それまで人に見せられなかった鱗に覆われた顔の皮膚や傷跡も順調に回復していき、この様子なら数日で元の状態に戻れそうである。
そのことによって、自身の呪印に一時的に塞ぎ込んでいたアラインは少しだけ元気を取り戻した。その様子を見たユウも、ようやくアラインの明るい顔が見えるようになってちょっとだけ元気をもらうと、前よりアラインと口を利くようになった。
これまでの旅の中で一番穏やかな一時だった。最初の『生贄の門』を通ったときのように周囲から追いかけ回されることもなく、ダースロウやユウの追手の脅威からも避けられることもできた。
これも幸福地帯の恩恵か。なんにしてもアラインとユウは、少しでも長くこの状況が続くことを望み、できればこのままなにもなく聖儀祭を逃げ切れればと思った。
そんな列車での長旅も、いよいよ終点が近づいて来た。アナウンスが終着駅を告げると、アラインは「降りるぞ」とだけ告げ、ユウもそれに頷く。
降りた駅は、これまでいたどこの街よりも豊かな感じが際立つ街並みだった。
まず、どこを見ても建物が高い。建物に入ったお店も流行を取り入れたものばかりで人の出入りが活発であり、とにかく都心の中心と言う感じがした。
聖儀祭真っただ中と言うこともあるのだろうが、人々の活気もよく、最初にいた街よりもパレードが盛大に行われていた。
ここも地震の影響が少なかったのか、やはり建物が倒壊したような形跡は見当たらなかった。祭りも継続して行われているみたいだし、平和そのものだ。
「よかった、ここは地震の影響はなかったみたいだね」
ユウが周囲の状況を見て胸を撫で下ろしながら言う。だがアラインの意見は違かった。
「さあ、どうだろうな。そう判断するのは向こうを見てからだ」
すでに向かう場所は決まっているのか、アラインは駅に着くなりすぐに歩き始めた。そしてもう今では自然な形となった、ユウの手を握りながら街を歩く。
やはりというべきか、ユウは周囲に目を奪われて常に明後日の方を見ながら歩いていた。だがその気持ちはわかる。どこを見ても展開しているパレードやセレモニー。客寄せの声に振り返ればどこも繁盛しているお店ばかり。そしてどこもかしこも行き交う人並み。
こんなのユウでなくても目を奪われて一瞬くらい放心するだろう。それほどこの街は溢れんばかりのエネルギーに満ちた治安のいい場所だった。
幸福地帯一歩手前のタームでもう人々のこの喜悦様……。ではいったい、幸福地帯に入ったらどうなってしまうのか。ユウはそのことが気になって仕方がなかった。
と、そんなことを考えていると、予想が的中したような言葉と一緒にアラインの足が止まった。
「やっぱりな」
いったいなんのことだろうとユウも前を見、「えっ」と声を漏らす。
幸福地帯へと続く壁は前回の壁同様に破壊されており、人の行き来が盛んになっていた。
「どうして壁だけ……? 他の建物はひび一つ入ってないのに」
ユウの疑問はもっともだった。原理的にあり得ない壊れ方をしている門に、アラインも猜疑心の籠った視線を投げる。だがアラインにはある程度想像できた状況だった。
アラインは地震が起きた直後、ダースロウと一緒にいたときのことを想起する。次いでダースロウが『帝冠クラウン』を模したレプリカを持ち上げた直後地震が起こったことを思い出した。そのときの場面を脳裏に浮かべてアラインは怪しむ。
もしかしてあの地震が起こったのは、あのときダースロウがレプリカを持ち上げたからではないのか。あのレプリカは実際に『帝冠クラウン』とリンクしていて、そしてどの地域でも壁だけは確実に壊れるようにコントロールしたのではないかと。
そう考えれば、この不自然な壁の壊れ方にも説明がつく。
(これは偶然なんかじゃない。恐らくダースロウの仕業だ)
アラインは心の中で呟く。そしてダースロウの企てている陰謀に猜疑心を覚えた。ダースロウはいったいなにをしようとしているのか。今回の壁の破壊は、その助長に過ぎないのか。考えれば考えるほど謎が深まっていく。
「アライン?」
アラインが一人考え事をしていると、ユウが心配そうに聞いてきた。自分が難しい顔をしていたことに気づくと、アラインはなんでもないと首を振った。
「ここを超えたらいよいよ完全な幸福地帯だ。気を引き締めて行かないとな」
アラインは誤魔化すように発破をかけた。いきなり自分を鼓舞したアラインにユウはわずかに首を傾げたが、言われていることはもっともだと頷く。
「よし、それじゃあ俺たちも行くとするか」
微妙な空気になるのを気にしてか、アラインは俄然やる気に満ちた声で歩き出す。そんなアラインの様子にユウは首を傾げながらも、瓦礫と化した『生贄の門』をアラインに着いて通り抜けた。
◇
幸福地帯側のタームに着いても、列車での移動は変わらなかった。
ここまで順調に来れば今さら説明することでもないが、どうやら今回の地震の規模は、幸福地帯方面にいるか不幸地帯方面にいるかでだいぶ違っているらしい。建物や街並みはほとんど地震の影響を受けていない。そんな中でタームを隔てる壁だけが全壊しているから、より一層奇妙さが際立ったのだろう。
運気のいい流れの方向に長時間いるためか、アラインの姿は人間らしいものに戻っていった。先日の自傷行為による傷も癒え、性格も本来のアラインらしくなっていく。
「アラインの言ってること、本当だったね」
列車での移動中、ユウがアラインの全身を眺めながらそんなことを呟いた。なんのことかとアラインが首を傾げると、ユウは示すようにアラインの皮膚を見る。
「肌。運気の流れがいいところに行けば、自然によくなっていくって」
「ああ。そうだな」
アラインは包帯の隙間から見えた肌が、ちゃんと人間の皮膚に再生して行っているのを見た。今はまだ傷だらけだが、このまま順調に行けば早いうちに包帯も取れるだろう。
「……そういえば、不幸地帯でフロードさんに会ったよ」
不意にユウがそんなことを言った。ユウの顔を見ると、言ったあとでも話を続けようかどうか迷っている表情をしていた。アラインはそれに答える。
「そうか……。実は、俺も会ったんだ」
「アラインも? っていうことは、やっぱりあの人も壁を超えてきたのかな……」
悩ましげにユウが言う。それはアラインも気になっていることだった。あのときは状況が状況だったため聞き逃したが、もしかしてフロードも『生贄の門』の通り方を知っているんだろうか。それか別のルートを通ってきたのか……。
「不幸地帯にもあいつが布教してた本があった。いったいどう移動してたのか謎だが……もしかして、ああやって世界中飛び回って布教して回ってるんじゃないだろうな」
嫌な予感を覚えてアラインは苦虫を噛む。
現段階、今回の旅の間はそれが影響することはないだろうから、一応は放っておいても平気だろう。問題は聖儀祭が終わったあとだ。ただでさえ移転のことで厄介なことになったというのに、これ以上変に権力を持たれたら手に負えなくなる。
(聖儀祭が終わったあとは、やっぱりフロード絡みのことを解決すべきか……)
「アラインは飛び回ってたことあるの?」
アラインが今後のことを考えていると、ユウが興味深げに聞いてきた。一瞬なんのことかと真顔になるアラインだったが、すぐに意図を察すると「ああ」と頷く。
「一時期な。あれはフロードのところから出て、ジルたちと会う前。俺が昔、丁度今行く幸福地帯に当たる場所にいたときだ。俺はそこで、実験をかねてアクセサリーを作って売ってたことがあるんだけどな」
「実験?」
怪しげな文言にユウが食いつく。アラインは思い出し思い出し語った。
「実験って言ってもそんな怪しげなものじゃない。『因果歪曲計』搭載型のアクセサリーを売って、そのアクセサリーをつけた人の運気を均等にできるかどうかの実験だ」
「それって、今私がつけてるやつと同じの?」
「そうだな……ユウが今付けてる奴とはちょっと違うな。昔売ってたのは、幸運を貯めることができる担保型のやつで、ここぞというときに運気を開放してラッキーを掴むっていうアイテムだったんだ」
「へー、そんなことしてたんだ。……で、結果はどうだったの?」
「成功したよ、両方の意味でな。売り方が上手かったのか、アクセサリーはバンバン売れたし、実験の方も、アクセサリーをつけた人の運気は均等になって盛衰もなくなった。当時は『これを持っていれば運気を担保できる』っていうキャッチコピーで売ってたなぁ」
懐かしげにアラインは言う。というのも、この出来事はかれこれ7、8年近く前のことなので、アラインも懐かしい気分に浸らずにはいられなかったのだ。
「どうしてそんなこと思いついたの?」
「うん?」
アラインが語っていると、ユウが話に食いついてきた。アラインは「そうだなぁ」と言うと、思い出すようにして語り出した。それはアラインの幼少期まで遡る。
最初はフロードと出会ったとき、アラインが5歳のころ、父が死んだ直後だった。アラインがフロードのところで商いのことを学ぶようになり、世の中の仕組みがおかしいこと――12年周期に気づいたときだ。
フロードのところを出たのは7歳のときだった。出た理由は言わずもがな、あの性格についていけなくなったからである。それからアラインはフロードから学んだ商いの学を使って、幼いながらに一人で商売をすることにした。
だがその時期は不幸な時期、いわゆる不幸地帯の近くにいたこともあって、最初は商売はなかなか上手く進まなかった。因果の糸が出せるようになったのはそのころだった。
なんてことはない。偶然自分の上に落ちてきたものに驚いてパッと両手を上に向けると、意図せず指先から糸が出たのだ。それからアラインは自分の新しい能力を知った。
アラインは考えた。この能力を使って商売につなげることはできないかと。それで思いついたのが、糸を使ってアクセサリーを作ることだった。商売は上手く行った。アラインが試行錯誤している間に不幸な時期を越したこともあって、商売は右肩上がりになり、上手に波に乗れたのである。
『生贄の門』の超え方を知ったのは、その2年後、アラインが9~10歳のときであった。『生贄の門』の先にまだ見ぬ大陸があることをうわさで知ったアラインは、どうにかして『生贄の門』を超えられないかと考えたのである。
壁の超え方を知ったのは、ひょんなことからだった。呪印が出ぬよう『眸』を使って『流気』を見ていたとき、偶然『生贄の門』で被害に遭う人々を見たのだ。そこでアラインは『生贄の門』が人々から因果を吸収しているのを見た。それが壁を超えるヒントとなった。
アラインがもう一つ目を付けたのが糸人形だった。糸人形はダースロウが因果の糸を紡いで作る人形。アラインはそれを『生贄の門』を超える際に貢物として使えないかと踏んだのだ。
結果は現状の通りだった。アラインは糸人形を使って無事『生贄の門』を超えることに成功し、それから世界中を飛び回る旅に出る。そうして『生贄の門』超えて世界中を飛び回る旅に出る過程で、アラインは自分の出す糸で『因果歪曲計』の原型ができることに気づいて実験してみた。
その最中でジルたち仲間と出会い、今『セシリア』がある場所に拠点を置き、今に至る。それからさらに変化を望んだアラインは、『因果歪曲計』を作り、『帝冠クラウン』事態の『流気』の流れを変えられないかと試みたのだ。
「――と、そんな具合で『因果歪曲計』を設置する毎日が始まったわけだ」
「へぇー、そうだったんだぁ」
アラインがあらかた話し終えると、ユウは感心したように声を漏らした。アラインも思い出しながら話したせいか、不意に昔が懐かしくなって追想にふける。
「お店……楽しかったね」
「うん?」
アラインが追想にふけっていると、不意にユウがそんなことを言った。物憂げな感じで呟くユウの方を向けば、ユウはどこか悲しげな感じで窓の外を見ていた。
「いいなぁ、アラインは……帰る場所があって」
「帰る場所って。ユウにも一応、月経秤っていう家? があるじゃないか」
なぜか落ち込んでいるユウにアラインはフォローを入れる。しかしユウは顔に影を落としたまま、寂しげな口調でポツリと呟いた。
「うん。確かに帰る場所はあるけど……そこにはアラインの家みたいに仲間たちは待ってないし、また独りぼっちで部屋に閉じ込められるだけだから。待ってくれている人がいるっていいね」
ユウは月経秤を出てからというもの、たくさんの人に出会い、人と人との繋がりをいっぱい見てきた。そして人の温かさに触れてきた。それはかけがえのないものだろう。
しかし月経秤に戻ってしまえば、もうそういうものとは疎遠になり、二度と手に入らなくなってしまう。つまり、一生死ぬまで部屋で一人きりになるということだ。
人との関わりを知ってしまったのに、また一人に戻るのは、きっと辛いだろう。
そこまで考えてアラインは初めてハッとした。確かにそうだ。自分には帰れば仲間が待っている。しかしユウには待ってくれている人はいない。
「帰りたくないなぁ」
何気なくユウは呟く。その言葉には寂しさが滲み出ていた。
「……帰りたく、ないなぁ……」
もう一度、今度は唇を震わせながら言う。その目には薄らと涙が浮かんでいた。
すぐにフォローしようとアラインは身を乗り出すが、なにも浮かばず口籠もってしまう。
と、そんな話をしている間に終着駅が近づいてくる。それはこの旅の終わりを指していた。アナウンスの知らせを聞くと、アラインは誤魔化すように言う。
「お、次が終着点だ。いよいよ目的地に着くぞ」
「そうだね……。なんかアライン、少しワクワクしてる?」
いつもより少しだけ声のトーンが大きいことに気づくとユウは指摘した。一方でアラインは無自覚だったのか、言われると「え?」とユウに振り向きながら問う。
「俺、そんな顔してたか?」
「してたよ。気づかなかったの?」
「いや、まったく。でもそうか……そんな顔になってたか」
どこか納得したようにアラインが呟くと、すかさずユウは問うた。
「なにかいいことでもあるの?」
「うん? ああいや、ちょっとな。どう変わったか気になって」
「変わったって?」
「さっき話した実験のやつだよ。『因果歪曲計』搭載型のアクセサリーを散布したって言ったろ? その成果がどう表れてるのか楽しみでな。上手く行ってるといいんだが……」
言いつつ、アラインは年頃の少年らしい輝いた瞳で、これから降りようとする幸福地帯の中心地へと視線を投げた。話を聞くとユウはなるほどと頷く。
二人で話しているとアナウンスが終着点を告げた。次いで列車が徐々に減速する。そろそろ降りる準備をしようかと、二人で荷造りをした直後、列車の窓に血飛沫が付着した。
突然真っ赤に染まった視界に、一瞬なにが起きたのかと硬直する二人。すると二人が理解するより先に悲鳴が上がり、車内はたちまち阿鼻叫喚の嵐となった。
「な!?」
いきなり起こった事件にアラインもユウも面食らうと、その間に列車は停止した。やがて扉が開くと、乗客たちは逃げるようにして列車を降りて行く。
アラインとユウも急いでそれに続いた。そして駅のホームに降りると、手足のバラバラになった死体がホームのあちこちに飛び散っているのを目撃した。
想像もしなかった事故に二人ともその場で固まる。しかしアラインはなにかを察したのか、すぐにハッとすると、足早に高台にある駅を出て街全体を見下ろした。
幸福地帯であるはずの各所で、乱闘騒ぎや自傷行為が繰り広げられていた。
街中にいるあらゆる老若男女たちが、入り乱れながらお互いを半殺しにし合い、そこら中から阿鼻叫喚の悲鳴や血飛沫が飛び散る。地面に薬の瓶を片手にオーバードーズで吐き散らかす人や、リンチに近い暴行を受けて失神している人々で埋め尽くされていた。
「アライン、急に飛び出してどう――」
あとから駆けつけて来たユウがアラインに声をかけようとして、目の前の光景に言葉を失う。そしてすぐに正気を取り戻すと、アラインの傍に寄って青い顔で叫んだ。
「なにこれ、どうなってるの!? これ、みんなが……殺し合ってる!?」
壮絶な光景を見てたたらを踏むユウの横で、アラインは『眸』を発動させていた。忙しなく視線を動かすと『流気』を観察し、違和感の正体を掴もうとする。そして驚愕した。
幸福地帯に漂っているはずの多幸の気が、不幸地帯ほどに薄まっていたのだ。
「なんでだ? どうしてここまで『流気』が乱れてるんだ!?」
今度はアラインが声を荒げる番だった。理由のわからない事態に戸惑い、幸福地帯では決してあり得ない乱闘騒ぎに混乱する。
そんなアラインの疑念に答えたのは、意外にもユウだった。
「あれじゃない? 壁が壊れて違うタームからも人が流れ込んで来てるから……」
「あ……そうか! そう言えば壁が壊れて――」
答えが出るとアラインは得心が行った。試しに『眸』で住民たちを見てみる。そこには身の内から湧き出す吉凶のバラバラな人々で入り乱れている様子が見て取れた。確かに他のタームから移動してきた人たちが入り込んできたようだ。それとは別に街中の吉凶が明らかにアンバランスな様相が見て取れた。
文明の先を行く背の高い建物。お祭りでさらに凄いお祝いムードの街。華やかに飾り立てられている出店。絶え間なく披露されるパレードやキャストによるセレモニー。
そういうものを想像していたが、実際に目前で繰り広げられていたのは、老若男女たちによるリンチや自傷行為や殴り合いだった。
その光景は地獄絵図そのものだった。いろんなところで一度に騒動が起こり過ぎて、どこから手を出したものかわからず、呆然とするしかない。
一方でアラインは『眸』で奇妙な因果の動きを捉えていた。空間に漂う希薄となった多幸が、人々に吸い込まれて行っている。いったいなにに吸い寄せられているのかと目で追いかけると、やがて地面に倒れている女性に目が行き驚愕する。
女性がつけているネックレスが、周囲の多幸を吸い込んでいた。
いや、女性一人だけではない。アラインは周囲で暴れ回っている住民に目を向ける。
この地域に住まうほとんどの者たちがジュエリーを身につけており、そのジュエリーが本来幸福地帯に蔓延しているはずの幸運気を根こそぎ吸飲してしまっていた。
周囲の幸福度が極端に下がっているのはそれが原因だった。しかもそのネックレスは今にも破裂しそうなほど幸運がパンパンに詰まっており、早く解き放たなければネックレスの方が壊れるほどのものである。
一方でユウもなにかに気づいたのか、同じ情景を見てアラインに告げる。
「あのネックレス……アラインのお店で売ってたやつと形が似てない?」
言われてアラインは『眸』を消して純粋にネックレスを見る。確かにそれはユウの言う通り、『セシリア』で売っているものと酷似していた。
いや、酷似しているどころではない。あのネックレスは――
「あれは……昔、俺が作ってたものだ」
そこでアラインはまさかと思い、再び『眸』を使って周囲を観察する。
希薄なまでに薄まった多幸の因果。それらが吸飲されていく方に住民たちに目を向ければ、アラインが昔作ったと思しきジュエリーをつけているのが見て取れる。
そのすべてが、限界ギリギリまで幸福を吸い込んだまま、未だに多幸を解き放てぬまま悲鳴を上げるように因果が点滅していた。
(なんで……こんなことになってるんだ? だいたいあの商品自体、もう7、8年近く前のものだ。とっくに流行は過ぎてるはず。それがどうして今も変わらず流行ってるんだ? なによりも……どうして幸福をあそこまで集めた人たちがみんな、死んだような顔をして不幸そうにしてるんだよ……っ!? いやそれどころか、なんでこんな騒ぎに!)
「アライン!?」
気づくとアラインは、首からネックレスをかけている女性へと突進していた。すぐ後ろからユウの制止の声が響いてきたが、アラインはそれどころではなかった。
アラインはなりふり構わず相手のネックレスを掴むと、焦った様子で怒鳴りつける。
「おい、どうしてこんなになるまで運気を溜めてるんだ!?」
「あ、なに? ……いや! なにあなた、離して!?」
それまで意識を朦朧とさせていた女性は、アラインが自身のネックレスを引っ張っていることに気づくと、倒れていた者とは思えないほどの力でネックレスに掴みかかった。
だがアラインも譲るわけにはいかない。アラインはそのままの態勢で叫び続ける。
「早く運気を解き放て! じゃないとネックレスも壊れるし、あんたも幸せに――」
「触らないでぇ‼」
アラインが運気のことに触れた直後だった。女性は激しい抵抗を見せたあと、どうにかアラインの手から逃れて、そして大事そうにネックレスを庇う。
「これは幸運ゲージを溜める幸せのネックレスなの! これがないと不幸になっちゃう!」
必死に叫ぶ女性に、しかしアラインは意味がわからず当惑した。
「な、なに言ってんだ……逆だろ? せっかくゲージを溜めてるのに、溜めっぱなしにしてたら、いつまで経っても幸運が解放されないじゃないか」
まるでこちらが間違っているのかと勘違いしそうなほど誤った使い方をしている女性に、そう説得するアライン。だが女性の意見は違かった。
「あなたこそ何言ってるの? 今のうちからゲージを溜めておかないと、運気の低迷期が来たときに対処できないじゃない。不幸な期間を乗り切れなくなっちゃう!」
女性の言い分に、その解釈に、アラインは凄まじいショックを受けた。その衝撃はアラインの常識を根底からひっくり返すほどのもので、アラインは途端に青褪めていく。
「不幸な期間……だって? 違う。俺はそんなことのためにそれを作ったわけじゃ……」
狼狽えながら女性の身形を見て、アラインははたと気づく。
そういえば、この女性の来ている衣服は、この場所が幸福地帯なのにもかかわらず、ところどころ解れておりボロボロだった。
服装だけじゃない。まるで重労働のあとのように頬はコケており、瞼の下にクマまでできている。髪もバサバサで体はやせ細っており、不摂生な生活習慣が想像できた。
「あんた……普段なにを食べてるんだ? どういう生活をしてたらそんなにやせ細る?」
「どういうって。慎ましやかな生活に決まってるでしょ?」
「それはなんでだ? 貯えがないのか?」
「はあ? なに言ってるの。むしろ逆よ。めちゃくちゃに貯えてあるわよ。貯金だって将来には困らないほど貯めてあるし、食べ物にも困ってないわ」
「じゃあ、どうしてそんな……」
アラインがまた同じ質問を仕掛けると、いい加減苛立った女性が叫んだ。
「だからさっきも言ったじゃない! 運気ゲージみたいに今のうちから溜めておかなきゃ、低迷期が来たときに対処できないって! 人の話聞いてなかったの!?」
再び女性から同じことを言われ、アラインは愕然とした。そのショックは大きく、アラインは倒れるように膝から崩れ、あからさまに肩を落とす。
そんな状態になってもなお、アラインは最後まで質問を続けた。
「じゃあ、次の質問だ……どうして周りの人たちは、互いに殺し合ってるんだ?」
「殺し合う? 違うわ。あれは殺し合ってるんじゃない、むしろ助け合ってるのよ」
「助け、合う?」
「そうよ。不幸になって酷い目に遭えば、その分だけ幸福ゲージが溜まるでしょ? だからみんなお互いに半殺しにし合って、一生懸命幸福ゲージを貯めようとしてるんじゃない」
「違う!」
正論を突きつけるように告げてくる女性にアラインは怒鳴ると、正しい知識を伝える。
「あれは酷い目に遭えばゲージが溜まるなんて作りはしてない、アクセサリーをつけた人の運気は均等にするためのもので」
アラインは必死に説明する。だがなぜだろう。アラインが必死になればなるほど、目の前の女性は変なものを見る目でアラインから距離を取って行った。
「どうした……なんで逃げる?」
「だってあなたが変なことを言うから……まるでこのアクセサリーの製作者みたいに」
「そうだ、それを作ったのは俺だ! 俺なんだよ! だからこうして正しい使い方を――」
女性はまたもや一歩下がった。対してアラインはアラインで、一人悟ってしまう。
「じゃあなんだ……この事態は、俺がこんなものを売ったせいで起こってるっていうのか? いつから? いつの間にこんな酷い状態に――」
ようやくすべての元凶が、過去に自分が配布した『因果歪曲計』搭載型のアクセサリーであることを知ると、自分が招いた状況にアラインは膝から崩れて絶望した。
その間に女性はそそくさと去って行いく。そこに今度はユウが駆けつけた。
「どうしたのアライン、急に怒鳴ったりして!」
わけを知らなかったユウは状況を聞いた。しかし想像以上のショックを受けたアラインは立ち直ることができず、わけを話せるほどの気力がなかった。
この街の人々は――幸福地帯の住民たちは、幸せになるために不幸を味わっていた。
アラインは周囲で乱闘を繰り広げている人々を見る。そのどの人たちも殴られているに関わらず笑みを浮かべており、いかにも幸せそうな表情を浮かべていた。
これでこれからきっと幸せになれる、という最上の幸せの中にいるのである。
中には、完全に力尽きて息絶えている者もいた。その正体は幸せのピークで死んだ者。
今、幸福地帯の人々は、最上の幸福の中で甘美な絶望を味わって発狂しているのだ。
もうこんなところにはいられない。もはや幸福地帯は崩壊した。
タームを隔てる壁も壊れ、これからどんどん不幸地帯の住民たちが流れ込んで来るだろう。均衡が保たれていた壁が崩壊し、国中の吉凶が混じり合い互いに侵略し合い、人々の運命を弄ぶだろう。これから突拍子もない波乱な時代が訪れようとしている。
まさに終末だ。この世界は今、終末を迎えようとしているのだ。
ダースロウの策略によって――そして、アラインの善意からの行いによって。
「アアアァッァアァァァッァアァァァアアアアアアアアアアアアアァァァアアァァァッ‼」
突然アラインは発狂した。すべての元凶の一部が自分であるという事実に堪えられなくなったのだ。アラインは頭を抱えると、泣き叫び、声の限り絶叫を上げる。
「アライン!」
すかさずユウが蹲っているアラインの上から覆い被さった。この救いのなくなった世界から庇うように、そっと優しく、しかし力強く、ギュッと抱き締める。
「今すぐここから出て行こう! こんなとこにいちゃいけない……っ」
今まで見たこともない泣き方をするアラインに、ユウは精一杯提案する。しかしアラインはユウの下で小さく首を降ると、その提案を拒んだ。
「でも……でも、それじゃあなんのために俺たちはここまで来たんだ……ユウの幸福体質だって、ここじゃなきゃ上手く隠せないってのに」
「それは大丈夫だから! アラインが作ってくれたペンデュラムがあるでしょ。これを締めてる限り、私の幸運体質は制御できてるから。ね? だからもう帰ろう? 私たちのお店へ……『セシリア』へ」
ふと一瞬、アラインの脳内に仲間たちの顔が浮かんだ。
ジル、カンナ、他の仲間たちや、子どもたちの顔が……。
「帰、る?」
「そう。もう帰るの。もう十分私たちは頑張ったよ。それに帰っているうちに聖儀祭だって終わってるはずだよ。そうすれば全部終わるから。だからもう帰ろう?」
「……」
優しく宥めるユウの囁きに、アラインは小さな子どもに戻ったみたいに黙ったまま立ち上がる。それから現実から逃げるように耳を塞ぎ、目を固く閉じた。そんなアラインをユウは優しく抱え込むようにして駅まで誘導した。
しかし列車は動かなかった。人身事故の影響でしばらくは運航休止らしい。
仕方なくアラインとユウは、徒歩でこの街を出ることにした。
とにかくユウは、アラインのために少しでも早くこの場所から去ってしまいたかった。今は自分がアラインを守らなくては。アラインの心が崩壊してしまう前に。一刻でも早く。
それから二人は迷子の子どものように、互いを支え合いながら幸福地帯を後にした。




