第3話
剛速球で放たれた鉄の塊は一直線に警備隊の方に飛んで行くと、アラインから見て一番手前にいた隊員の頭部に見事直撃する。
鐘をハンマーでぶっ叩いたような凄まじい音が全体に響くと、隊員が被っていたメットはベッコリと凹み、中の本人は失神して地面に崩れた。生身の人間に当たっていたらと思うと、それだけでゾッとするほどの破壊力である。
今度は隊員たちを含め、敷地内にいるほとんどの人たちが工具の飛んで来た方向――アラインのいる時計塔を振り返る。
「奇襲はあそこからだ! 屋根に怪しい奴がいるぞ、捕まえろ!」
即座に先頭にいたリーダーと思しき人物が喚いた。一瞬戸惑っていた警備隊は鶴の一声で二手に分かれると、一方は引き続き騒動の方へ、残りは時計塔へと突貫する。
そんな突然のアクシデントに、今度はダースロウたちが動きを見せた。
彼らは一斉に黒装束をはためかすと、中から数体のフェルト人形を足元に落とす。その人形らは先程の因果の糸から縫い合わされた人形と同じく不気味な姿をしており、地面に落ちると幼子のような笑いを上げながら辺り一帯に散らばっていった。
「きゃああああ!」
黄色い声が上がったのは即座のことだった。突然の悲鳴にアラインが目を向ければ、放たれた人形たちが地上の人々に集って、体中から因果の糸を引っ張って遊んでいる。
糸を引っ張られた人たちは、まるで生地の解れを引っ張られたように身体の一部が緩んだり締め付けられたり、ときには破れた皮膚を生地のように引っ張られたりしながら、おどろおどろしく姿を変形させていく。
ダースロウたちは騒動に紛れて姿を消していた。その間も人形たちは人々へのいたずらにゾッコンし、五体満足だった者たちを片端へと変えていく。
立て続けに銃声が響いたのはそのときだった。警備隊が蒸気銃を構えて、好き勝手に戯れるフェルト人形の群れを撃ち始めたのだ。
銃弾が当たった人形は即座に破裂すると、糸や綿をぶちまけながら息絶える。上半身、あるいは下半身が残った人形は、地べたを這いずりながら笑い声を上げた。
「ええい、鬱陶しい人形だ! すべて燃やしてしまえ!」
やがてどこからかそんな命令が響くと、火を用意した警備隊たちによってバラバラになった人形に火がつけられていった。下界は徐々にちょっとしたボヤ騒ぎになると、ますます住民たちの悲鳴も大きくなり、ただ事ではなくなっていく。
「こりゃ相当マズいことになってきたな」
呟きながらアラインは手早く荷物を片づけると、急いで時計塔の中に引っ込んだ。
古びて錆だらけの青銅の鐘を横切ると、規則的に揺れる巨大な振り子を躱し、騒々しく音を立てる無限の歯車に支配された異空間を駆け抜けた。ほとんど前につんのめりながら三段飛ばしで螺旋階段を下りると、ときおり手摺りから飛び降りる。
「この上だ! 扉の前に固まれ!」
地上の足場が見えてくると、同時に外から怒声が響いた。周囲からガシャガシャと重い鎧の音がし、警備隊が出入口に配置されたことがわかる。
これ以上の好都合はなかった。
階段から飛び降りると、アラインは着地した姿勢のまま、一度だけ目を閉じる。
(正規ルートは――)
自身に問いかけながら心を凪にし、ゆっくり息を吸った。
肺に取り込んだ空気の流れに自然と意識が向く。
酸素が血流に乗って体内を巡ると、やがて血液は心臓に到達して、鼓動が体中から響いた。一定のリズムを刻む心音は、コウモリの超音波のように周囲に拡散する。
音の情報は、空間すべての振動を拾った。
外の隊員が蹴飛ばした石ころが猫に当たる。驚いた猫は大通りに飛び出す。飛び出した拍子に地面の花を揺らす。花に止まっていた一匹の蝶が空に飛び立つ。ばたついた羽が小さな気流を作る。小さな気流は風の向かう方向をわずかに逸らす。逸れた風は大気とぶつかり国全体に強風を巻き起こす。
そして強風は先行く人々の足並みを早めたり遅らせたりした。乱れたテンポはいずれ各々の予定さえ狂わし、今後の世界情勢に影響するだろう。
人の流れ、空気の流れ、時間の流れ――それらが集約された情報の塊は風に乗り、運ばれた因果は巡り巡って自身の下に帰着すると、アラインは極限まで感覚を研ぎ澄ませた。
全の中にあった二度と訪れぬ一瞬。アラインは己を取り巻くすべてを悟る。
「――『眸』――ッ!」
詠唱と同時に静かに瞼を開ける。
引き伸ばされた体細胞生物のように流動的なものが視界いっぱいに蠢いていた。
風に流れる粘着質な濃霧を想像するとわかりやすいだろう。それは時計塔を隅々まで満たすと、空間はある種の軽い幻覚作用、奇抜なアート一色の魔界へと変貌する。
それも数瞬。即座に美化された装甲が剥がれると、もう少し落ち着いた目に優しい色合い、オーロラに近しい彩度へと下げられた。ようやく視界が安定する。
やがてアラインは流動的なそれ――穏やかに流れる可視化された因果を認めた。
「こっちか!」
階段の途中、アラインは辿るべきルートを見定めると正面の壁に突進し、そのまま時計塔の壁に空いている隙間から外へと飛び出す。
すぐに外に待機していた隊員たちの数人が、地表を泳ぐ人影に気づいて、その本源を追って頭上を見上げた。アラインはそんな目下に咲く一面のアホ面を飛び越えると、隣の建物の開いていた窓に転がり込む。
「向こうに飛び移ったぞ! 計画的な犯行だ、悪質な野郎め。絶対に逃がすな!」
「痛っつぅ……なんでどんどん罪が重くなってくんだよっ」
聞えてきた指示に呆れながら、アラインは打った個所を擦った。思わぬところで罪を重ねられていくため、いよいよ捕まるわけにはいかなくなる。
窓から侵入したのは行政庁の一室だった。最近改装工事が行われているようで、人気はまったくない。時計塔内で見た因果もこちらに流れ、室内を通過して外に続いている。
お蔭でアラインは、難なく反対側の窓から表の路地に出られた。
「前から因果がこっちに続いてたのは知ってたし、逃げ道を確保しといてよかった」
事前準備の大切さを噛み締めながら外に出ると、丁度こちらに走って来ていた人影と鉢合わせた。相手はアラインを見るや開口一番に謝罪する。
「悪いアライン、しくじった」
申し訳なさそうにそう言ったのは、先程こちらに石を投げていた青年だった。しかしアラインは特に青年を責めることはせず、すぐに話題を変える。
「反省はあとだ。それよりさっき大勢のダースロウを見ただろ。もう大移動が始まってるみたいだ。また因果が巡って吉凶の境界が乱れるぞ。ジル、お前は先に行ってみんなに知らせろ。あと、どんなに遠回りになってもセーフポイントに沿って行けよ。どこで厄災が降りかかるかわからない。最近設置した『因果歪曲計』の位置は覚えてるな? それを目印にしろよ。俺は別ルートから行く」
「別って、また『因果歪曲計』のない道を行くつもりかよ!? お前それ本当に大丈夫なのか? そのうちマジでセーフポイントから外れるんじゃ」
「俺にはこれがあるから平気だよ――と」
自身の目を指差すや、アラインはジルを突き飛ばす。
「うおぁ!? アライン、待――」
「いたぞ、あそこだ! 仲間と合流する前に捕まえろ!」
思わずジルが漏らした呻きは、角から響く金属の足音と怒声に掻き消された。