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第19話 過去

 小さいころからアラインには、それがなんとなく見えていた。

 何歳ごろから見えていたのか、具体的な年齢はわからない。だがアラインが物心のつくときには、時々だがその能力を自ら行使して遊んでいた自覚はあった。

(ホルス)』――吉凶の流れ、及び因果を読む力。

 まだ生まれて間もないアラインには、色のついて見えるそれが、どういったものかまでは理解ができなかった。それでも空中で煙のように撓む色彩が面白く、よく手で掴もうとしたり、払ってみたりと、幼いなりにいろいろ試して遊んでいた。


「うーん? どうしたのアライン。そこになにかあるのかな?」


 そんな様子を、アラインの母は子どもによくある行動の一つとして、特別重要視はしていなかった。ただ我が子が上機嫌に振舞っているのを見て、それが一人の親として嬉しく、ご機嫌な息子を抱き上げて一緒に笑っているだけで幸せだった。

 このときまで母は、アラインのそんな行動を、大きくなれば自然に消えていくものと認識していた。だがその行動も、度が過ぎれば疑念へと変わる。

 幼年期を過ぎても治らないアラインの不思議な動作に違和感を持ち始めた母は、いよいよ危機感を覚えるようになった。

 そんなある日、母は思い切って直接本人に聞いてみることにした。


「アライン。いつもそうやって遊んでるけど、なにをしてるの?」

「……色」

「え?」

「なんかたまにね、この辺いっぱいに、色のついた線みたいのがたくさん見えるんだ。それが混ざったりぐにゃぐにゃになったりしてて面白いから、それを見てるの」

「色のついた線ってまさか……ああそんな、アライン⁉」


 アラインが聞かれたまま本当のことを告げるや、母は悲劇的な声を出すと、酷くショックを受けた表情でアラインをギュッと抱き締めた。

 いきなり嘆きながら抱き着いてきた母に、アラインは心配げに声をかける。


「お母さん? いきなりどうしたの」

「ああ神様、これも私たち種族の宿命なのですか? 私自身の運命はすべて受け入れます。でもどうか、この子だけは……この子の因果だけは狂わせないで……げほっ、ごほ」

「お母さん、また咳してるよ。大丈夫? 風邪引いちゃった?」


 いつものように咳き込む母を見て、アラインは小さい手で背中を擦ってやる。

 母は、アラインが生まれたときから虚弱体質だった。少し外出しただけで流行り病にすぐかかり、不運としか思えぬほど些細な怪我から大きな怪我までよくした。

 そんな儚げながらも彼女なりに限りある生を燃やし、息子には心配ないと首を降る。


「げほっ……平気よ、アライン。ちょっと咳き込んじゃっただけだから。ごめんね、いつも心配ばかりかけて」


 そう言って優しく頭を撫でてくれた母の体には、あちこちに斑点のように青黒い紋様がいくつもあった。それはまるで紋様のように浮かび上がっており、外傷でできる傷跡とは別のものであることを、アラインは幼いながらに知っていた。


「お母さん、またここの色変わってる……」

「うん、そうだね……。でも全然痛くないから、放っておいても大丈夫なの」


 アラインが新しい紋様を発見しては指摘すると、母はいつもそう言ってなんでもないよと誤魔化した。その印がなにを示しているのかもわからなかったアラインは、単に母はこういう痕ができやすい体質の人なんだと、その程度の認識でしかなかった。


       ◇


 けれども歳を重ねるごとに、アラインも母の体質の異常性に気づき始めていた。

 少年期を迎えたころには自分と他人の境界線も引けるようになり、自身の家庭と周りの違いにも敏感になってくる。そこで、いの一番に気づいた異様が母の病状だった。

 アラインも成長すれば一人で街中を出歩くこともある。

 その中ですれ違ういろんな家族を見て、基本あまり外出はせずいつも家に引き籠っている自分の母が、いかに重症であるかを子どもながらに悟った。

 だからといって母に直接訪ねても、毎回「大丈夫」「心配ない」とはぐらかされるだけだった。どうやら母なりにアラインのことを気遣っているらしい。

 そんなときアラインは、いつも父に相談を持ちかけていた。


「お父さん。お母さんがね、また紋様が増えてるんだけど、それを聞いてもいつも誤魔化されちゃうんだ。なにか悪い病気なのかな? ねえ、どうすればいいと思う?」

「うーんそうだなぁ。お母さんも一人の女性だ、肌の色が変わるっていうのは、さぞ苦しいことだろう。そうだアライン。今度お父さんと一緒に買い物に行こう。そしてお母さんんに合いそうな化粧品を選んで、プレゼントするっていうのはどうだ?」

「もお、真面目に聞いてよお父さん! そんな簡単な話じゃないんだってば!」


 父はいつも能天気だった。

 アラインが話を持ちかければ、その内容が深刻であるほど楽観的に考え、決まって最後には「どうにかなるさ」と話を一方的に終わらせてしまう。

 だが今考えれば、父は母の事情を全部知っていたのかもしれないと、成長した今なら思えた。その上できっとアラインを心配させないために、安穏を演じていたのだろうと。


「ははっ、アラインはいつも真面目だなぁ。そんなときはこれを読みなさい」


 そう言っていつも父が取り出すのが、自己啓発本の類だった。

 父はアラインの前で本を捲ってみせると、どれどれと文章を指で追う。


「お、あったあった。んんっ……。アライン、例えばここに水が半分入ったコップがあるとしよう。そのコップを見て、アラインはどう思う?」

「それ、お母さんのことと関係あるの?」

「いいから答えなさい。アラインは今、物凄く喉が渇いてる。でもコップには水が半分なんだ。さて、アラインは水が飲みたくて仕方がない。そんなときどう考える?」


 なんとしてもアラインに答えさせようとする父。

 こうなったときの父は梃でも動かなかった。アラインは仕方なく頭を働かせて考える。


「えーと……もう少し水が飲みたいな?」

「つまりアラインは、もう水が半分しか残ってないと思ったわけだな?」

「いや、そうは言ってないけど……」

「そういうことなんだよ。でもなアライン、それはネガティブな考え方なんだぞ。こういうときはな、水がまだ半分も残っているって考えることが大切なんだ」

「そう……。で、それがお母さんのこととどう関係があるわけ?」

「要するに、まだお母さんの肌は全部変色しきったわけじゃない、まだ大丈夫なんだって考えることが大切ってことだよ。そうやってポジティブな方に舵を切ることで、視野が開けるようになるんだ」

「なんだよそれ、ただの現実逃避じゃんか! まだってことは、そのうちマズいことになるってことでしょ⁉ じゃあ今のうちになんとかしないと!」

「ああいや、まあそうなんだけどなぁ……ううん……。ええと他には……お、ならこれはどうだ? イノベーションって言葉を知ってるか? これはな――」


 こんな具合で、アラインが論破しようものなら、すぐに別のページを開いてまた別の考え方を持ち出すのが父の悪い癖だった。どんな悪い出来事が起こっても、すぐにポジティブに置き換えて、あたかも物事が良い方向に進んでいると錯覚させる。

 何度父から自己啓発本を奪い、隠れて捨ててしまおうかと思ったことだろう。でもそれは無駄だった。こういった類の本は毎年新しい情報を更新しては発売されるからだ。その度に父は新しい本を買っては読み漁り、手に入れた知識をアラインと母にひけらかした。


 正直アラインは、こんな父に心底うんざりしていた。宗教関係に嵌っているわけではないが、なにかそれに類似した信仰的な、気持ちの悪い思想が窺えたからだ。

 それでも見限れなかったのがアラインの優しいところだった。

 どんな肉親であれ、彼はアラインにとってたった一人の父なのだ。

 それに直接の被害が出たわけでも、暴力を振るったり金遣いが荒かったわけでもない。自己啓発の類を除けば父は優しい親だった。

 父は加工技術者であり、その地位はマックジョブと言われる、いわゆる昇進のチャンスのほとんどない、将来性のない職場に勤めている労働者だった。


 そこにコンプレックスを抱えているのか、父は暇さえあれば自己啓発本を読んでおり、そこに書かれているポジティブなこと、挨拶や礼儀の大切さを信じ、いつも実践していた。

 面倒な仕事を押しつけられる度に「仕事をさせてもらっていることに感謝しなきゃ」「小さいことの積み重ねが大事」「雑用を熟せば、この人はいつも一生懸命にやっているからこの仕事を任せてみよう、って言って評価してくれる人がきっと現れる」と、なんでもかんでも前向きに捉えてしまうところが父にはあった。

 最近は特に気に入った実業家の出している本があるようで、父はその人の本が出る度に毎回本屋へ赴き、買ってきては書いてある内容を読み込んでいた。


「大丈夫だアライン。お前はちょっと難しく考え過ぎなんだ。もっと柔軟になれ。今すぐお母さんがどうこうなるわけじゃないだろ。きっとすぐによくなるさ」


 そして最後には、いつもアラインの頭を撫でて慰めてくれた。

 よくなるってことは、今は悪い状態なんだ……と、こちらが望めば簡単に言い返せてしまう隙があるくらいには抜けている部分の目立つ父だったが。

 アラインはそんな足りないところの多い父でも、母と同じくらい愛していた。


       ◇


 母が普段引き籠っているのは、なにも体が弱いことだけが理由ではなかった。

 そのことに気づいたのは、ある日、母と一緒に買い物に外に出ていたときのことである。


「じゃあお母さんここで必要なものを買ってくるから、その間待っててね」

「わかった」


 珍しく体調のいい母の言いつけで待っているように言われたアラインは、適当に座れるところを探して腰を落ち着けた。その間アラインは、ぐるりと適当に街並みを見る。

 異変を見つけたのはそのときである。

 建物と建物の間。小さな暗闇の奥に、ごそごそと動くなにかを発見した。

 まだ幼くて好奇心旺盛だったアラインは、その正体が気になりそうっと近づく。

 それはこちらに背を向けており、アラインが至近距離まで近づいても気づかなかった。


「――それっ」


 かけ声と同時にアラインが飛び出すと、それは難なく手の中に納まり見事捕まえられた。

 街の中から叫び声が上がったのはそのときである。


「やばいこっちに来たぞ、早く逃げろ!」


 それは突然のことだった。いきなり周囲の人々が騒ぎ出し、一斉に逃げ出す。


「邪魔だ、どけ!」


 始めて見る騒動にアラインが一人呆然と立ち尽くしていると、逃げてきた男からど突かれ、そのまま地面に転んでしまった。

 さらにその上を、逃げて来た何人もの人々が踏みつけ、体中を蹴飛ばしていく。


「アライン! どこにいるの⁉」


 すぐ近くから母の呼ぶ声が聞こえる。騒動を聞きつけて急いで駆けつけたのだろう。その声には鬼気迫ったものがあり、かなり慌てていることが窺えた。

 だが地面に蹲ったアラインをすぐに見つけだすことはできなかった。

 捕まえた獲物を大切に庇っていたアラインはそれに答えることもできず、されるがまま蹴飛ばされる。やがて騒動が静まったのは、たくさんの足に踏み付けられ、限界を迎えようとしたころである。ようやくキックの嵐が収まるとアラインはおずおずと顔を上げる。

 仮面を被り、黒衣の衣装をまとった者たちが、アラインの前に立っていた。


「う、うぅ……誰?」


 朦朧とした意識で尋ねると、先頭に立っていた者が「おぉ」と小さく慈悲に満ちた声を上げた。静かに体を折ると、地面に倒れて丸くなっているアラインの前に跪く。


「なんて可哀想な忌子。安心しろ、今終わらせて楽にしてやる」


 黒衣の者は優しげにそう言うと、アラインの頭に手を翳そうと体を倒した。


「やめてぇ!」


 今まさに黒衣の者がアラインに触れようとした刹那、急いで走ってきた母がアラインの手を引っ張り、庇うように自分の腕の中にしっかりと抱き締めた。


「やめて、あっちへ行って! 私たちに関わらないで!」


 黒衣の者を前に、母は全力で叫ぶと懇願した。

 しかし黒衣の者たちはさらに驚いた声を上げると、厳かな声音で母をなじり始める。


「お前が例の掟に背いた愚か者か。よくもおめおめと我らの前に顔を出せたものだ」

「通過儀礼を拒んだ者。我らの恥」

「人との間に子どもなど成しよって。忌子がいずれ苦しんで死ぬときが来るだろう。いい機会だ、今のうちに母子共々、その呪われた因果から解き放ってやろう」

「それが我らにできる最善だ」


 口々に厳しい口調でそう言うと、黒衣の者は姿勢を正し、怪しいモーションに入る。

 そこからの母の動きは素早かった。瞬時に周囲に目をやると、すぐにアラインの持っている糸人形に目をつけ、それをアラインから奪い取り黒衣の者たちに掲げる。


「これからする非礼をお許しください!」


 母が一言そう言った瞬間、手に持っていた糸人形はたちまち解けて、とても長い一本の糸になった。糸はひとりでに動くと何本にも束ねられ、そのまま目の前にいた黒衣の者たちをぐるぐると巻きつけ、あっという間に身動きを封じてしまう。


「アライン、こっちに来て!」


 母はすぐにアラインの手を取ると、身動きの取れなくなった黒衣の者たちをその場に残し、一生懸命に走ってそのまま家まで逃げた。

 家に着くころには二人とも息を荒げてゼイゼイ言っていた。先にアラインの息が整うと、アラインは幼かったからこそ聞けた突っ込んだことを母に問いかける。


「お母さん、どうしてあの人たちに悪く言われてたの?」


 母は問われて一瞬硬直した。図星を突かれて動揺したのである。どうはぐらかしたものかと母は当惑する。しかしそれも一瞬のこと。母はなにやら覚悟するように一人頷くと、真剣な眼差しでアラインを見た。


「あの人たちはね……ダースロウって言うの」

「だーすろー? なにそれ?」

「この世界を巡礼して、吉凶の流れを巡らせてる者たちのことだよ」

「吉凶? ……なんか、よくわかんない」

「そうねぇ。アラインには、まだちょっと難しい話だったかな」


 当時の母のことを思えば、あのとき、誤魔化そうと思えば誤魔化せたのであろう。

 だが母はそうしなかった。それはアラインが大きくなってからのことを考え、必ずどこかであの者たちと衝突する日が来ることを察していたのだろう。


「それで、どうしてそのだーすろーって人たちは、急にあんなことしたの?」

「ダースロウは昔お母さんの仲間だったから。それを裏切っちゃったからかなぁ」

「お母さんの方が悪いことをしちゃったの?」

「……」


 それ以上母はなにも語らなかった。代わりにアラインを抱き締めると、ただ静かにポンポンと背中を叩く。これにはアラインもなにも言えなかった。

 母が悪いことをしたのなら、向こうが怒っているのは仕方のないことだし、当然だと思ったからだ。だから代わりにアラインが母を許してやることにした。そのことに意味があったのかはわからないが、アラインの方からも母を抱き締め返す。


「大丈夫だよお母さん。もしお母さんが許してもらえなかったとしても、俺がお母さんの味方でいてあげるから」

「アライン……。うん。ありがとうね」


 思いは伝わった。母は涙ぐんで返事をすると、お礼を言って鼻を啜る。

 それから父が帰って来ると、アラインは今日起こったことを早速父に話した。だがその報告はほとんど無駄なものとなる。父はお得意のポジティブ理論で今日の悲劇を前向きに受け取ると、それを糧に前に進もう的なことを言って話を終わらせてしまったのだ。

 この日ほど父にうんざりした日はなかった。

 アラインは父に聞えぬよう、母にこっそりと聞いてみる。


「ねえお母さん。どうしてお母さんは、お父さんなんかと結婚したの?」

「ええ? どうしてって?」

「だってお父さんって、いつも前向きだけど、中身が空っぽのことしか言わないっていうか……実際に大変な目に遭ってるのに、それをどうにかしようとなんてしてくれないしさ」


 拗ねるように言うと、アラインは実際に唇を尖らせてみせた。そんな我が子の可愛らしい仕草を母は「まあまあ」と言いながら、アラインの背中を撫でながら宥める。


「それはね……お母さんが、お父さんの前向きな姿勢に惚れ込んじゃったからだよ」

「惚れたぁ? あんな適当なことを言う人のどこに好きになる要素なんてあるの?」


 珍しくアラインが強めな言い方をすると、母はクスクス笑いながらも説明してくれる。


「今日会った人たち……ダースロウが、昔お母さんの仲間だって話はしたでしょ?」

「うん」

「お母さんはね、まだアラインが生まれる前に、ダースロウの掟っていうのが嫌で、駄々を捏ねちゃったことがあったんだ。それからお母さんはダースロウの群れから追い出されて、今でもあの人たちに厭われてるの。そんな一人で寂しかったときに出会ったのが、お父さんだったんだよ」

「え、そうだったの?」


 まさか両親の馴れ初めを聞くことになるとは思っておらず、アラインは素直に驚いた。

 母が弱っているところに、そのころから父が嵌っていた自己啓発本のことを熱弁されて、それに母も勇気づけられて……。

 そのあとは普通の恋愛話だった。どこにデートに行って、父が休みの日はこんなことをしてと。母は実に幸せそうにそのことを語った。

 話の途中、母はアラインにいつも首から下げているペンダントを見せた。


「このペンダントはね、お父さんが初デートのときにお母さんにプレゼントしてくれたものなんだよ。いつもおかしな本しか買わないあの人が、まともなものをくれたのよ? それだけでお母さん満足しちゃって――」


 その後も母は心底懐かしそうに、そして嬉しそうに当時のことを語り続けた。

 これにはアラインも、これ以上母の前で父の不満は言えなかった。先程悲劇があったばかりで、そこに水を差すのは空気が読めないと思ったからだ。

 今日起こった出来事と同じように、また近い日にダースロウに目をつけられる日が来るのだろうことを、アラインはなんとなく想像する。だがそれでもいいと思えた。

 だってアラインにとっては、そんな生活でも、家族と過ごせる今が幸せだったから。

 そしてこの日、アラインは母と約束した。決してダースロウには近づかないと。


       ◇


 だけどそんな日々は長く続きそうにもなかった。母の体調が悪化したのだ。

 まるで死期を知らせるように母の肌が変色していく。その範囲が広がる度に母の体は弱っていき、健康な肉体は日に日に蝕まれていった。

 当時のアラインの家庭は貧乏で、とても薬を買えるようなお金もなかった。

 そうなれば当然病院にかかる費用もなく、母は家で寝ている時間が長くなった。にもかかわらず、父は相変わらず本を買いあさっている始末である。


 けれどもしかしたら父は知っていたのかもしれない。母の病気は現代の医学ではどうにもならないことを。だからこそ、本に逃げていたのかもしれない。

 そして不運にも、このころ父は仕事が忙しくなり、母を看病する時間も労働に削られていた。となると自然、その役目はアラインが担うことになる。

 しかしそんなことは、そもそもが無理な話だった。アラインはまだ幼く、とてもじゃないが一人で母の看病をすることなんてできない。良くておでこに乗せた乾いたタオルを新しく濡らしたり、ときおり咳をする背中を擦る程度のものだった。


 日に日に弱っていく母。今では外出は愚か、食事もまともに摂れず、街に出ていたころと比べると頬もこけて顔色も悪くなり、明らかに体重も減っていた。

 すべては、その体中に蔓延る変色が原因だと、アラインは独自にそう考察していた。

 だが、どうすることもできない。こんな病気は聞いたことも見たこともなく、医者に相談してもまったく未知の症状だと言って取り合ってもくれなかった。

 最早頼れるところなど、一つもなかった……ただ一つの可能性を残して。


「お母さん……」


 アラインは寝ている母を呼びながら、一人逡巡する。これから自分がしようとしていることが、果たして正しいことなのか決心がつかず、ぐらついていたのだ。

 その躊躇いを崩したのが、母の大きな咳だった。寝ながら「ゲホッ、ゴホッ」と一際大きな咳をする母。その枕元には血の混じった淡が吐き出されており、母の寿命が尽きかけていることが窺える。もう尻込みしている時間などなかった。

 アラインは決意を固めると、いても立ってもおられず外へと駆け出し、目的の人物が見つかることを祈って街へと出た。確か母の話だと、最近だとこの辺りが巡回のコースなのか、よく姿が見られるようで母も外出を控えていた。


 であれば、見つかるのも時間の問題だろう。

 アラインのその予想は当たった。街を走り回っていると、早速逃げ出すように膨らむ人混みを発見する。間違いなく彼らはそこにいるはずだった。

 そう確信するが早いか、アラインはこちら側に逃げていく人混みの中に飛び込んで、人波に逆らって前に進んだ。そして数秒と経たないうちに視界が開ける。

 そしてついに見つけた。街を巡礼するダースロウの集団を。


「待ってください!」


 人波を割りながら去って行く黒衣の者たちに、アラインは慌てて声をかけた。

 しかしダースロウたちは止まることなく、割り開かれていく人混みを怪しく歩いて行く。

 どうやら声をかける程度では立ち止まってはくれなさそうだ。そこでアラインは走って一旦集団を追い越すと、今度は進行方向に立って道を塞ぐ。


「お願いです、話を聞いてください! あなたたちの助けが必要なんです!」


 アラインが行く手を阻むと、ようやく集団は立ち止まった。

 その光景に逃げ惑っていた人々は絶句する。

 すぐに「おい君、離れろ」と声が上がるが「放っておけよ」と誰かがそれを制し、関わり合いになりたくないと誰もがすぐに背を向けて離れていく。

 結局この場に残ったのは、アラインとダースロウの集団だけだった。すでに他の人々は家に隠れるか、遠目からこちらの様子を窺うかして、出て来ようとはしない。


 アラインが呼び止めたのは、以前とは違う集団だった。ダースロウたちの人数や身長もこの前とは異なり、しかし相変わらず怪しげな仮面だけは被っている。

 即座にアラインは異質ものを感じた。初めて真っ向から対面する彼ら彼女たちに、いやもしかしたら人間ですらない魔物と対峙して、不気味な緊張感に足が震える。

 だがそこで母の苦しんでいる顔が脳裏に浮かぶと、すぐに震えは止んだ。恐怖は焦りに塗り替わり、早くしなければと急く気持ちのまま、アラインはもう一度叫んだ。


「お母さんを助けてください! お願いします! お願い……っ」


 顔の見えない奇怪な者たちを前に勇気を出して助けを乞うアラインだったが、なけなしの勇気は途中で嗚咽に変換されてしまい、涙声で懇願する羽目になってしまう。

 だがそれでも伝わったのか、先頭のダースロウが動きを見せると、仮面を近づけてアラインに問うた。


「お前は……例の忌子か」


 焼かれた喉から無理やり声帯を絞ったような、掠れた声が頭の上から響く。

 最初アラインは知らない単語で呼ばれ、なにを言われているのかわからなかった。それでも相手が自分を知っていることがわかると、もう一度頭を下げる。


「お願いです、お母さんを助けてください! もう頼れる人は他にいないんです」


 再三アラインが頼み込むと、ダースロウたちは噂話でもするように、互いに頭を寄せてコソコソとなにやら囁き始めた。その声は小さ過ぎてアラインにまで届かない。

 しかし一同が話終わらないうちに先頭のダースロウが「できぬ」と声を出すと、途端に後方の秘密の内話は終わった。その宣告を受けてアラインは青褪める。


「なんで……どうしてですかっ⁉ あなたたちならお母さんを助けられるんでしょう⁉ どうして助けてくれないんですか、仲間だったんじゃないですか⁉」


 アラインは必死だった。一般人なら離れたがる集団に自ら距離を詰め、慈悲をくれとばかりに足元に縋りついて声を上げる。


「必要なことがあれば手伝います! どんなこともしますから、だからっ」

「そういう問題ではないのだ、忌子よ。我々がお前の母を助けないのは、それがお前の母の決意した意志であり、同じ種としての我々の願いだからだ」


 アラインには、彼がなにを言っているのかわからなかった。ただ一つ理解したのは、彼が母を助ける気がないということ。それだけ知ればもう十分だった。


「つまり……あなたたちは、お母さんを見捨てるんですね」

「その言葉には綾がある。我々の掟に逆らい、裏切ったのはお前の母の方だ。そして人間との間に子を授かり、糾える禍福を外れ、修羅の道を選んだのだ」


 難しい言葉の羅列にアラインの頭はパンクしそうだった。

 アラインが混乱している一方で、ダースロウはその場で仰ぐ。


「そうか……あの者にも、ついにそのときが来たか……」


 思いを馳せるようにしみじみ呟くダースロウ。その様子にアラインが呆然としていると、ダースロウは不意にこちらを見た。そして恐ろしいことをうそぶく。


「時期にお前の母は絶え果てる。これも因果の導きだ。お前も一緒に葬ってやろう」


 初めて聞く言葉の数々に、アラインは理解が追いつかなかった。しかし今、こちらに伸ばされた手に捕まってはいけないと、それだけは本能的に判断する。


「や、やめろ……来るなぁ!」


 アラインは叫ぶと踵を返した。それから黒装束の集団から逃げるようにとにかく走り、道もわからぬまま駆け抜け、全速力でダースロウの集団から距離を取る。

 それからどのくらい走ったことだろう。わかることは肺が爆発しそうなほど苦しくて、必要な酸素が全然頭に回っていないことだけだった。

 まだ幼いアラインには、この薄暗い紫色の空に輝く星々の動きを読むことができないものだから、今が遅い時間なのかどうかもわからない。


 ただ、街に活気が戻ったことには安心した。人がいるということは、ダースロウはもう近くにいないということだ。余裕ができると、ようやく冷静な判断ができるようになる。

 闇雲に走ったため見知らぬ場所だったが、アラインは人々に道を尋ねながらどうにか帰路に着くことができた。

 家に帰り着いたころには母が起きており、心配げにアラインを呼んだ。


「アライン、こんな時間までなにしてたの⁉ お母さん凄く心配したんだから。いったいどこに行ってたの?」

「あ、ええと……ごめん、道に迷っちゃって」


 一瞬、本当のことを言おうか悩んだアラインだったが、結局嘘をついた。

 先日あれだけダースロウと自分が関わることを恐ろしがっていた母だ。それなのにダースロウに会ってきたなどと言ったら、ただでさえ体調が悪いのに悪化しかねない。


「まったく……アライン、ちょっとこっち来なさい」


 反射的に怒られると思った。だが遅い時間まで帰らなかったのは完全にアラインに非がある。ここは言い訳などせずに、素直に怒られようと思った、次の瞬間だった。

 ふわりと優しく抱き寄せられると、母はアラインの頭を撫でながら、そっと呟く。


「なにをしていたかはわからないけど、お母さんはアラインさえいてくれれば、それでいいんだからね? だから、あまり心配かけないでちょうだい」


 その言い方はすべてを見透かしているようで、アラインはドキリとした。

だけど多分、言葉の通り、アラインがなにをやっていたかは知らないのだろう。

 ただ母親の勘というやつで、だいたいなにをしていたのかを察したのかもしれない。そんな口調だった。このときほど、母親には敵わないなと思ったことはなかった。アラインは母の体温を感じると、その温もりを絶対に忘れぬようにと、自らも母へと抱きつく。

 それから数日後。母は眠るように衰弱して亡くなった。


       ◇


 父がさらに自己啓発本にのめり込むようになったのは、母が死んですぐのことだった。

 遠からずこんな日が来るとわかってはいたが、それでも実際に母が亡くなったのは父にとって相当ダメージが大きかったらしい。

 息子の前では相変わらず気を張っている父だったが、ふとしたときに隠れて落涙しているのをアラインは知っていた。

 アラインがそうであったように、父にも拠り所が必要だったのだろう。その逃げ道が、元々のめり込んでいた自己啓発系の書籍だったということだ。


 その書籍というのも大幅にジャンルが増え、今まで自己啓発本にだけ固まっていたものが、延いては専門書・ビジネス書・生活実用書と、新しく開拓していく始末だった。

 父の依存度はそれだけに留まらなかった。なんでも最近、とあるラジオ放送でお気に入りの実業家ができたらしく、毎回放送を聞いてはリスペクトしているらしい。


 このごろでは変に口数も増え、やれミニマリストだ、ロジカル・シンキングだ、ソースだマインドだエリートだの、聞き慣れない横文字ばかりが並ぶようになった。

 母が死んだばかりとは思えぬほどテンションも高くなり、以前よりも前向きさが増した。

 その陶酔ぶりに、さすがのアラインも危機感を覚えた。

 アルコール依存症やギャンブルにハマったわけでも、宗教関係者にそそのかされたわけでもないのに、その手の闇営業に手を染めてしまったかのような、異様な気持ち悪さを覚える。言っていることは全部ポジティブなのに、えも言われぬ覚束なさを感じた。


 目に見えない何者かに操られている。

 なんだろう、この感覚は。父はどこに向かい、どうなってしまうのかと、アラインはとにかく父のことが心配で心配で、母の死を悲しむ余裕さえなかった。

 しかしそんなアラインにも、凶兆が表れ始める。

 それに気づいたのは、家で一人父の帰りを待っていたときだった。

 父に代わって食事の準備をしていたとき、腕に奇妙な紋様ができているのを発見する。


「なんだ、これ?」


 覚えのない傷跡にアラインは首を捻った。触ったり押したりしてみるが、これといって痛みはない。どこかにぶつけただろうかと記憶を遡っても、それらしい出来事は思い当たらなかった。そこでアラインが取った処置は放置することだった。

 痛みが無いのであれば、害はないから大丈夫だろうと踏んだのだ。

記憶にないだけで、きっとどこかにぶつけたのだと。その程度のものだろうと深くは考えなかった。

 だがその紋様はいつまで経っても消えることはなかった。それどころか日が経つごとにどす黒くなっていき、その範囲も腕から肘にまで広がり始める。


「どうなってるんだよ、いったい⁉」


 見るからに異常な症状にアラインは泡を食った。治るどころか悪化していく未知の症状に総毛立つ。既視感を覚えたのはそのときだ。


(確かお母さんにも、似たような紋様が……)


 違和感の正体に気づくや、アラインは眩暈にも似た症状を覚えた。

 脳裏に浮かんだのは、謎の紋様に塗れて死んでいった母のことと……今なおどこかに落ち続けている父のことだった。そんな父と母の顔を、紋様から沸き立つ死の臭いが覆っていく。死臭に当てられるとアラインは膝から崩れた。次いで本格的に目が回り始める。


(俺は……死ぬのか⁉ お母さんみたく、全身紋様に塗れて――あんな状態のお父さんを一人残して!)


 そこまで考えるとアラインはハッと顔を上げた。幸い父はまだ仕事から帰ってきてはいない。こんな惨状を父には見せられない。もし自分の息子が、母と同じ病に侵されていると知ったら父は――

 一度料理を中断すると、アラインはクローゼットへと駆けた。そして中から袖の長い服を引っ張り出すと、今着ている服を脱いで急いで着替える。

 これで傍からは紋様が見えないはずだ。しばらくはこれで隠し通せる。

 だがそれは一時的な処置でしかないことを、アラインは理解していた。このまま症状が進行すれば、きっと今のようには誤魔化せなくなるだろう。


 だけど今はこれでよかった。ただでさえ不安定な父に、これ以上ショックを与えないで済む。それでもいつかは知られてしまうときが来るだろう。

 それでもこの間はだけは、せめて今のままの、少しでも幸福な時間を過ごそうと、アラインは子どもながらに固く心に誓った。ところがそんなアラインの血盟は、紋様の症状が奇妙な方向に進行したことにより覆った。

 違和感に気づいたのは、それから数日後のこと。いつものように長袖を出し、新しい服に着替えようと着替えをしているときのことであった。

 相変わらず面積を広げていくどす黒い紋様。その範囲は脇の方にまで侵食し、胸にまで達しようとしていた。その中心に奇妙なものを見つけたのは、そのときだった。


「? ……なんだ、これ」


 アラインは紋様の中心が乾燥し、肌が鱗のように覆われていることに気づいた。

 何事かと触診を試みるが、疼きも痛みも痒みもない。

 指先には、爬虫類の表面をなぞったような独特の感触が伝わるだけで、それ以上の変化は見られなかった。明らかに母のときとは違う症状の表れ方にアラインは眉を顰める。


(こんな症状、お母さんのときには見られなかった)

(俺だけに現れた傾向? ということは、お母さんのときとは違う病気? いったいなんの――)


 沈思しながら、取り敢えず鱗を剥ごうと捲ってみる。

 刹那、皮膚を裂かれるような痛みが走った。


「っ!」


 これまで感じたことのない痛覚にアラインは全身を震わせる。ささくれを捲るのとは全く次元が違う。耐えられぬほどではないが、その倍はある独特な痛みだった。


「なんだこれ⁉ ただの皮膚じゃないのかっ……?」


 明らかに平常とは異なる皮膚にアラインは目を剥くと、すぐに捲るのをやめた。


「お母さんのときとは違う……ってことは、別の皮膚病? なら一度医者に診てもらった方が……」

(でも家に今、そんなお金――)


 子どもだったからこそ、健康とお金を天秤にかけたとき、どちらを優先すべきかアラインはまだ知らなかった。

 健康こそがお金よりも尊いものだとはわからなかったのだ。ゆえにアラインは、これまで通り長袖で体を隠す処置を取る。そしてこの判断は偶然にも、末々にアラインを助ける結果となった。その恩恵に預かれたのは、それからまた数日後のことだ。


 いつものように父が外に仕事中、アラインが家事をしていたときのこと。アラインはこれまで感じたことのない疼きを覚えて、作業を中断して紋様の中心を見た。

 この前まで鱗だった個所が捻じくれ、いつのまにか出現した肉の蕾から小さな触手が芽を出し、イトミミズのように予想できない動きを繰り返していた。


「……ッ⁉ う、わ……ああぁぁあぁっ!」


 気持ち悪さと気味悪さ、そしてなにより自分の意思とは関係なく勝手に動く糸のような触手に、アラインは耐え難い不快感を覚えた。まるで肉体の一部が別の生き物になったような不気味さを覚えると、アラインはほぼ無意識でその触手を掴んで引き千切る。

 まだ症状が出たばかりということもあり、触手は一瞬だけ根を張ったようなピンとした感覚を残すと、そのまま容易に抜けてくれた。ただそれには痛みも伴い、それこそ大きな魚の目を強引に引っこ抜いたような、肉の抜ける感覚を覚える。


 当然出血もあった。傷口はじんじんと熱を発し、痛みへと転化されていく。それでも爽快感の方が勝った。自分から異物を取り除けた解放感に心底安堵する。

 一先ず不快感から解き放たれると、アラインは手の中の触手を見た。それはトカゲの切れた尻尾のように独りでに動いており、数秒立つと命が尽きるように沈黙した。


「な、なんだったんだ今のは……なんなんだこれは⁉」


 未知の症状に鳥肌を立たせると、アラインは今除去した小さな触手を握り締め、そのままゴミ箱に叩きつける勢いで捨てた。

 たった今自分を襲った嫌悪感がまだ全身にへばりついている。傷口も未だに疼き、ピクピクと痙攣しながらまったく別の生き物のように蠢いていた。


(気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い怖い怖い怖い怖い――!)


 痙攣とは別種の疼きを傷口から感じると、ついにアラインは耐えられず、傷口を引っ掻き出した。触手の周りを覆っていた鱗を毟り、爪で引っ掻き回し、めちゃくちゃにする。ただでさえ変形していた傷口はさらに悪化すると、形を歪めて血だらけになった。

 それでも構わなかった。たった今覚えた不快感を、異物になるような恐怖を痛みで払拭できるなら、どんな苦しみにでも耐えられる。それほどまでに嫌な感覚だった。


 やがて両手が血だらけになったあと、ようやくアラインは動きを止めた。

 そして傷口から先程まで触手があった痕跡がなくなっていることを認めると、ようやく止血にかかり、水道水で血を流した。それから適当にガーゼとテープで止めると服を着る。

 一息ついたころには満身創痍だった。

 その場に座り込むと息を吐き、頭痛がするように頭に手を当てる。一段落つくと気が抜けたのか、目が眩んだように幻覚を見る。視界に映ったのは流動的な色彩だった。

 水の流れのようなそれは、数秒間だけ目に映ると、途端に点滅して消えてしまう。


「う……? なんだ、今の……」


 眩暈でもしたのか、瞼を擦ってもう一度目を凝らす。しかし今見えていた景色はもう移ることはなく、疲労と心労で掠れた視界だけがそこにあった。


       ◇


 さらに数日後。相変わらず紋様は広がり続け、呪印はアラインの正気度を削った。

 その度にアラインは痛みに耐えながら呪印を除去し、父に見つかる前に後始末する。呪印が頻繁に表れるようになってから、例の幻覚も顕著になった。流動的な色彩が見える時間も長くなり、ある程度なら自分の意思で見えなくすることもできるようになる。


(俺……このまま死ぬのかな)


 日を追って酷くなっていく症状に、アラインは自分の死期をぼんやりと悟った。

 さらに泣きっ面に蜂の如く、アラインたち父子は今まで住んでいた家の家賃が払えなくなり、父が働いている会社の社宅に引っ越すことになった。

 このごろは社会情勢が芳しくないのか、父の給料も減り、一日の食事にもなんとかありつけている始末である。傷だらけになった全身を横たえ、視界に映る色彩を眺めながらぼーっと考えた。もしこのまま死ぬようなことになったら、父は悲しんでくれるだろうかと。


 ひもじくて腹が鳴る。しかし周りを見ても食べ物はなく、周囲にあるのは父が買い漁った書籍類の山ばかりだった。あれらを売れば少しは腹の足しになるだろうか。

 そんなことを考えていると睡魔がアラインを襲った。今や日課となった呪印の除去に疲れたアラインは、そのまま沈むように夢の中に落ちていく。

 それから何時間が経っただろうか。アラインは憂鬱な気分のまま目を覚ますと、身を起こして「くわぁ」と欠伸をした。そして無意識に呪印を除去しようと服の中を覗く。

 途端にアラインは目を疑った。なんと今まで全身に蔓延っていた紋様が綺麗サッパリ消えていたのだ。紋様だけではない。呪印も消え、痛々しい傷跡だけが残っている。


「ない……紋様が消えてる! ここにあった鱗も……いったいどうして?」


 唐突な快復にアラインは呆然とした。喜ばしいという気持ちよりも、なぜという疑問の方が膨らんで混乱する。そのときアラインの瞳が明滅した。

 視界に、いつものように流動的な色彩が映る。


「こっち……の方は、治ってないのか。……ん?」


 相変わらず幻覚が見えていることに落胆したのも束の間。アラインはあることに気づいて自分の周囲を見渡す。いつもは意識的に避けていた流動的な流れ。今回は疲れ果てていたためか、判断能力が鈍り、その流れの中心でアラインは眠っていたようだった。


「しまった、いつもは避けてたのに入ってたのか……ん? いつもと違って? ……ハッ」


 このときアラインは症状が一時的に治ったことで、よく頭が回っていた。だからこそいつもの過ごし方との違いに気づけた。アラインは慎重に色彩を凝視する。


「まさかこの色の流れ……いや、試してみる価値はあるか」


 とある閃きが脳裏を過ぎると、アラインはその可能性に賭けてみることにした。

 それからアラインの、自分の肉体を使った実験の日々が始まった。実験内容は単純なものだった。流動的な色彩の中で過ごしているときと、外で過ごしているとき。その違いで体に影響が出るかどうかだ。期限は一週間。その間、色彩の中で過ごした日と過ごさなかった日で体に変化が表れるかどうかを比べてみる。至ってシンプルな内容だ。

 それほど難しいことではなかったので、結果はすぐに出た。


 そして明らかな違いがあった。流動的な色彩の中で過ごした日は体に異常は出ず、外で過ごしたときは例の呪印が現れ、紋様も広がったのだ。

 しかも得られた結果はそれだけではない。なんと流動的な流れに沿って過ごした日は、沿わずに過ごした日と比べて運気に差があった。

 明確な物差しがあるわけではないからあくまでアラインの感覚的なものになってしまうが、色彩の中にいたときは小さな幸運に恵まれ、外にいたときは不幸に見舞われるようになったのだ。信じがたい成果に、アラインは動揺せずにはいられなかった。


「前から見えてたこの色の集まりに、こんな効果があったなんて……」


 以降は流動的な色彩の流れをセーフポイントと、瞳に宿った力には『(ホルス)』と名付けた。

 その後はなるべく流れの中で過ごすようにした。それからは体に呪印も現れなくなり、アラインは健康的に過ごせた。これにはアラインも歓喜する。

 しかし同時に、母のときに気づいていればと嘆いた。もっと早くこの能力が覚醒していれば、母を病から遠ざけ、長生きさせられたかもしれないのに――


 今にして思えば、母は最初から運気の流れやセーフポイント、そして『(ホルス)』という能力の存在を知っていたのかもしれないと思えた。その背景にはダースロウが関係している。

 まず一つ。なぜ母はダースロウのことを仲間と呼んでいたのか。それはきっと、あの黒装束の集団とは見た目が違っていたが、母もダースロウの一族だったからだろう。

 二つ目に、巷ではダースロウは怪物と恐れられている。人間離れした能力で人々を脅かし、実際にその異能で人を襲っている場面にも出くわしたことがあるくらいだ。


 そこから導き出されることは、母はダースロウの一族でありであり、人間である父との間に生まれた自分は、きっと――

 なにはともあれ、母もダースロウの血を引いていたのだとしたら、自分と同じで、見えていたのではないだろうか。この流動的な因果の流れが。そしてその流れに乗れば病が治ることも知っていた。

 でもそれをしなかった。アラインの経験によれば、この因果の流れは毎回形が違い、それこそ巡礼しているダースロウたちのように各地を巡らなければいけないからだ。


 そしてそれができなかった理由は、恐らくダースロウに目をつけられていたことにある。

 ダースロウが外を徘徊しているなら、あの者たちに厭われている母は安易に外に出られない。思い返せば、母が外出を避けていたのも、そこに原因があるような気がしてきた。

 ということは、間接的に母を殺したのはダースロウたちということであり――


 沸々と、腹の底から怒りが湧いて出る。母の仇が明確になった今、アラインの中に明確な憎しみが生まれた。けれどアラインからダースロウに近づくことはないだろう。

 それは母との約束だったからだ。決してダースロウには近づかない。母と交わした最初で最後の約束だ。それよりも全快したアラインには、他にやるべきことがあった。

 母が死んでから唯一となった肉親のこと。実の父のことである。


       ◇


 呪印を毟っていたときの傷も治り、完全に回復したアラインは、父の職場で見習いとして働くことになった。アラインが新しく働き出したことで、今まで賃金が低くその日の食事にもありつくのがやっとだった日々は、少しだけ余裕のあるものへと変わる。

 父の仕事は、工場のライン作業で働く加工技術者だった。そこでやるアラインの主な仕事は、父について一緒に作業をし、仕事の流れを覚えることと雑用である。

 職場は工場というだけあり、とても不潔な空間だった。鉄骨の骨組み剥き出しの場所で隙間風も多く、屋上の煙突からは真っ黒いガスがどす黒い雲を作っているような有様。


 息をするだけで肺が苦しくなる。こんな場所で長時間働いていたら、確実に病気になるだろう。アラインは未成年ということもあり、短時間労働で済んだため汚れた空気を吸う時間が少なくて助かった。

 しかし父は違かった。フルタイムでほとんど休みなく働いていたため、工場の汚れた空気を肺いっぱいに吸い込み、咳き込みながら毎日働いている。実際に父の職場に来るまで、まさか父がここまで不衛生な空間で仕事をしているとは思わなかった。


 これは早急に手立てを打つ必要がある。そこでアラインがまず初めにしたことは、最近使えるようになった『(ホルス)』で少しでもまともな流れを見つけることだった。

 しかしこれがまた驚きの連続である。なんとこの工場内では、ほとんど気の流れが良いポイントが見つけられなかった。可視化した色彩はどこを見ても淀んでおり、流れも滞って停滞している。この職場はそれほどまでに荒んでおり、人間が働くに当たって向いてない環境であり、労働者にとっても体に悪い状況であったのだ。


(ダメだこの職場。どこで働いてても不運なことしか起こらない!)


 さすがはマックジョブなだけあり、最悪な労働環境だった。そのくせ報連相には厳しく、長時間労働はもちろん、無駄な会議や動きが多く、完璧ばかりを目指していた。

 工場内での怒号とパワハラは日常茶飯事。他人に厳しく自分に甘く、上司にゴマを擦っている役員ばかりであった。上には媚びへつらい、従業員には罵声を浴びせるのが常。

 こんな空間、わざわざ『(ホルス)』を使わずとも、精神的にも肉体的にもよくないことは一目瞭然だった。だからといって他に働けるような職場もない。


 アラインにできるのは、父をなるべく運気の流れのよい方向に誘導することだけだった。

 例えば空気の淀んだ職場から、別の場所への移動願いの提案を父にしてみる。しかしこれは上手く行かなかった。父曰く「辛いからと言って楽な方を選んでちゃ成長できない」とのことらしい。呪印のことや日々の労働のことでそれまでアラインは忘れていたが、今になって思い出した。父は自己啓発系の書籍に毒されていたということに。


 そんなある日のことだった。アラインは職場で偉い役員たちが密談しているところに出くわす。その内容は偶然にも、父たち加工技術者の話をしている場面だった。

 複雑な地形をした工場だったので、どこにでも身を隠す場所はあった。アラインは一旦仕事の手を止めると、相手方に見つからないように隠れて、耳をそばだてる。


「それで昇進の話ですが……加工技術者たちの方はどうします? 最近はよく働いてるみたいな話を聞きますが」

「技術者? ……ああ、あのいつも雑用ばかり押しつけられている連中のことか。ふん、話にならんな。雑用ばかり押しつけられているということは、その程度の仕事しかできないから、いつまでもそんなことをやっていているということだろう? たかが知れた人間ということだ。そんな甲斐性なしどもに、昇進の話などあり得ない」


 ガハハハと汚い笑い声が工場内に響く。それから「もっと雑用を押しつけてやれ」と心無い言葉までも聞こえてきた。なんて腐った職場なのだろうかと思った。反吐が出るほど最低な職場だ。その結果父たち加工技術者は、面倒事ばかりを押しつけられるようになった。仕事量が増え、仕事がどんどん遅れれば陰で「あいつは仕事ができない奴だ」と陰口を叩かれている場面にも遭遇するようになる。

 当然ながらアラインは、そのことを父に告げた。しかし父は笑いながら「自分の頑張りが足りなかったか、それかまだ自分の番じゃないだけさ。むしろ懸命に働き続けていたお陰で悪い場所で仕事をせずに済んだのかもしれない」と言って、決してめげなかった。


 工場で誰からも評価されないまま日々が過ぎる。

 明らかに上司のミスでも「確かにあの人は口が悪いけど、自分のために怒ってくれているのは事実で、教えてくれていることに感謝しないといけない。こっちが2手先3手先まで見据えていればミスは起こらなかったんだから」と謎の反省ばかりをした。そのどれもが自己啓発本に書いてある文言だった。その後も父のポジティブな熱弁は続く。


「100回ダメでも101回目で変わるかもしれない」

「嫌なことがあったら、また成長できたなと思う」

「どんなときも常に自分は運が良いと思う」

「報われるまで努力する」

「配られたカードで勝負するしかない」

「才能のせいにしちゃいけない」

「まぁ、いいか」

「明るいから人生上手く行く」

「辛いときこそ笑え」――


 生活が貧しくなり、苦しい状況に陥れば陥るほど、父は前向きなことばかり発した。

 いつしか父は、いつまで経っても果てしなく続く辛い苦境を受け入れることができなくなり、コンコルド現象を引き起こしていた。

 まるでギャンブル依存症のように、悪い方へと転がり落ちていく。ポジティブな人間をターゲットにしている闇ビジネスに最後まで搾り取られるように……。

 やがて最悪な事態が起こる。工場で盗難が発生し、その矛先が父に向いたのだ。


 当然父は否定した。しかし「いつも上司から怒られているお前は低俗な人間であり、低俗な奴なら盗難をやっても不思議ではない」というレッテルを貼られてしまう。

 その結果、父は罪を擦りつけられて、ついには解雇されてしまった。

 幸いこの件はアラインには飛び火しなかったため、アラインは解雇を免れた。

 しかし状況は芳しくなかった。今度は長年悪辣な環境の工場で働き続けていたことが祟り、父は肺を患ってしまったのだ。いつまでも頑張り続けるどころか、早くやめた方がよかったのだ。それでも父の意見は変わらない。


「大丈夫だアライン……幸せはな、幸せそうな人のところにやって来るもんだ。だからお父さんは笑うことにするよ。先に笑顔になることで幸せになる……ゲホ、ゴホゴホ!」


 咳き込みながら、引き攣った笑みを浮かべる父。その頬はいつかの母と同じようにこけており、光りを失くした目は呆然と虚空を見るようになっていた。

 そしてついには、自己啓発本まで読まなくなった。万全だったころはのめり込むように読み漁っていた書籍類は、今や部屋の片隅で埃を被っており、所狭しと積まれている。

 父は寝込むようになり、ときおり「幸せ……」と呟くようになった。

 あれだけリスペクトしていた書籍に書いてある内容のようにはいかず、それどころか上司には罪を擦り付けられ、会社からは裏切られ、挙句の果てに体まで患ってしまった哀れな父。それでも悪夢に魘されながら「大丈夫」「きっと上手くいく」と、譫言のように喘ぐばかりで、幸せには一歩も近づかないどころか、むしろ遠退くばかりの毎日。


 アラインは父を可哀想と思うと同時に、憎しみを感じていた。

 なにが憎いって、専門書に夢中になった挙句、まったく幸せにならなかった父にも腹は立ったが、こんな書いた本人しか上手く行かなかい方法を堂々と販売が許されいる現実にも本の作者にも怒髪天を突いた。

 こんな本さえなければ、前向きなだけで幸せではない人間からお金を搾り取るような営業が法律で禁止されていれば、父はこんな目に遭わずに済んだのに、と。


 だが、こんな状況に陥ってしまったからには、もうどうしようもなかった。

 それこそ父の口癖の「配られたカードでやっていくしかない」とは違うが、本当に今手元にあるものでどうにかやりくりして行かなくてはならなくなった。

 父の病気も治るかどうかわからないが、今はそっとしておいてあげよう。

体のこともあるが、結局専門書なんてなんの役にも立たなかったという現実に打ちのめされた心を、プライドを回復させる時間は必要だと思った。

 事件が起こったのは、その矢先だった。


「アライン……」


 最初、呼ばれてびっくりした。今までずっと布団で寝たきりで譫言しか喋らなかった父が、いきなり布団から立ち上がって自分を呼んだのだ。


「お父さん……っ。もう、その……体の方は平気なの?」


 一瞬、心の方を聞こうと思ったが、やめておいた。精神的なショックのことについては触れない方が吉だと判断したからだ。ただでさえ弱っている父にストレスは与えられない。


「お父さんな、わかったんだ」


 ふらりと歩き出すと、窓際まで行って外を見る父。今は換気のために窓を開けており、涼しい風が入ってきて、父の髪の間を通ってふわりとさせた。


「わかったって、なにが?」


 落ち着いてはいるが、なにか奇妙なものを感じたアラインは、慎重に言葉を選んで先を促した。すると父は穏やかな表情でアラインを見つめて言う。


「本当の幸せについてだよ。お父さん、ようやくわかったんだ。幸せはなにかって」

「……それは、なんなの?」


 先を聞くのが怖かった。だけど続けなければ会話にならない。そう思って、アラインは言葉を連ねた。でもそれが間違いだったと気づいたときには、もうすべてが遅かった。

 父は一度だけアラインを見ると、ふっと口元だけで小さく微笑み、告げる。


「こんな世界からおさらばできることさ」


 言い終ったときには、父の体は完全に窓の外へと傾いていた。突然のこと過ぎてアラインはその場で棒立ちになった。その間、父は続ける。


「ああ――こんなクソみたいな世界からおさらばできるなんて、俺はなんて恵まれているんだろう――」


 ……肉がぶつかるような音のあと、長い沈黙が落ちた。

 なおもアラインはなにが起きたかわからぬまま、しかし唐突に体から力が抜けると、その場に崩れてぺたんと座り込む。

 それからすぐに、下界からいつくかの悲鳴が上がった。次第に周囲は騒がしくなり、警備隊たちの鎧がぶつかり合う、がちゃがちゃとした音が響いてくる。

 それでもアラインは呆然としたまま、ただ父が今までいた窓際をじっと眺めていた。


       ◇


「あなたがアラインね?」


 父が死んでから数日が経ったある日のこと。

 肉親が目の前で死に、目から光を失ったアラインが相変わらず父の会社の悪環境で雑用をしていると、後ろから唐突に声をかけられた。声に振り返ると、そこにはこの悪辣な職場には見合わないドレス衣装を着た女性がこちらを見下ろしていた。

 初めて見た高貴な格好に、アラインは圧倒されながら頷きを返す。


「そう、ですけど……あなたは?」

「ふふ、そういえば自己紹介がまだだったわね。私はフロード・スィンドゥラー。この会社の株主で、慈善事業家よ。よろしく」


 それがフロードとの最初の顔合わせだった。

 アラインは動作の一つ一つから高級感が漂う相手の所作に気圧される。次いで、そんな者が小汚い自分に何用かと構えずにはいられなかった。


「あの……俺になんの用ですか?」


 ただでさえ目立つフロードとあまり長く一緒にいたくなかったアラインは、単刀直入にそう聞いた。

 ここには心の荒んだ連中が多い。こんな場面、他の者に見られたら、あとでなにを言われるかわからない。用事なら早く済ませてほしかった。


「あら。まだ子どもなのに、おませさんなのね。それになんとも言えない不幸せそうな顔……気に入ったわ。やっぱり私の目に狂いはなかった」

「?」


 一人ぶつぶつ呟くフロードにアラインは首を傾げた。ただでさえアラインの暮らしていた環境とは真逆の境遇で育った井出達だ。相手の考えがわからないのは当然だった。

 と、アラインが脳裏でそんなことを考えていると、フロードは矢庭にこちらに手を差し出し、そしてアラインに一言告げる。


「あなた、私の下で働かない?」

「……は?」


 突然の申し出にアラインは混乱した。いきなりすぎてなにが起きているのか理解できない。一方でアラインが困惑していると、フロードはクスクス笑い自身の目論見を語る。


「私ね、今全国を周ってみなし子を保護しているの。そしてそんな子たちに、新しいお仕事を紹介しているのよ。あなたみたいな子を集めてね。……あなたの働きによっては、私のお着きにしてあげてもいいわ。もちろん住む場所も温かいご飯も出るわよ。どう? いい提案だと思わない?」


 フロードは不敵に笑うと、厚化粧の顔でにっこりと笑みを浮かべた。

 正直なところ、アラインにはこの提案を呑むべきかどうか判断できなかった。

 いきなり現れた見知らぬ人物に着いて行くなど、浅薄以外のなにものでもなかいからだ。


 だから、アラインの方からも試させてもらうことにした――『(ホルス)』を使って。わずかに瞼を閉じ、照準を絞るようにフロードを見据える。途端に『(ホルス)』は発動すると、フロードの取り巻く因果の流れを観測できた。そしてアラインは息を呑む。

 フロードを取り囲む因果の渦は、今まで見たこともないほど幸運に満ちていた。


(なんだ、この人……ほとんど運だけでこの業界を渡ってるじゃないか……っ)


 この職場で幸の薄い輩から重労働や残業を押し付けられてきたアラインは、この場にそぐわぬオーラに圧倒された。それと同時に口の端に笑みを浮かべる。


(この人について行けば――間違いなく俺の運命に影響を及ぼす)

「わかり……ました。その話、お受けします」


 次の瞬間には、アラインは二つ返事で承諾していた。正直、アラインはフロードの纏う因果だけでこの場を決定した。つまりフロードの人格や経歴は度外視して着いて行くことを決めたのだ。だから今この段階でフロードを心の底から信用したわけではなかった。

 なによりも、フロードはアラインが嫌う実業家だ。父をそそのかすような専門書を売り出したり、口先ばかりの上手い偽善者連中の一人である。

表向きは慈善事業などと謳ってはいるが、実際のところどんな汚い仕事に手を染めているかわからない。

 だからアラインは、むしろ相手を利用してやろうと、そんな心意気で承諾したのだ。

 すると今度はフロードが目を見開き、途端に妖艶に瞼を半分閉じてにんまりする。


「いい返事が聞けてよかったわアライン。これからよろしくね」


 そう言うとフロードが黒い手袋を嵌めた手を差し出す。

 アラインもそれに倣うと、汚れた手を差し出して、強くフロードの手を強く握った。

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