第16話『生贄の門』
12年周期で自転している『帝冠クラウン』は、大きく分けると幸福地帯と不幸地帯で構成されており、月経秤を中心に壁を隔てて十字に4つのフロアに分断されている。
この国ではフロアのことをタームと呼んでおり、4等分されたタームは12進法の運気の任を順番で担っている。各タームは常に吉から凶、あるいは凶から吉へと移り変わっているため、タームの周期によって禍福の差異が存在する。
しかしその事実を知る国民は、この『帝冠クラウン』には極わずかな、選ばれた者たちだけであった。なぜなら各タームは『生贄の門』で遮られており、4つのタームの住民たちは互いに移動が制限されているからだ。
別のタームへ移動するには必ず『生贄の門』を通過する必要があり、そのためには通行料として大きな代償を支払わなければならないため、通行者は必然的に選ばれし者だけとなる。故に隣接するタームの住民は、互いにそのタームの事情や生活を知ることはない。また『生贄の門』で仕切られていることでターム同士の貧富の差も隠ぺいされ、今日まで暴動が起きずに済んでいる。ということも住民が知る由もない。
稀に別タームへ移れる者もいるが、両隣であればそれほど格差も如実に表れていないため、2つ以上跨いで移動しない限りはその格差に気づかれることはない。
もっとも、『生贄の門』を一つでも通過した時点でその者が支払った代償のつけに侵され、生き残れる者はほとんどいなかったのだが。
「因みに今俺たちがいるのは、今の時点では周期的に凶から吉への中間の第2タームで、幸福地帯寄りの一番安定してる場所だ。といってもサイクル的に、ここも数年後には不幸地帯になるんだけど。で、俺たちはこれから凶の方角の第4ターム、丁度今見えている月桂秤の真裏、反対側を目指して移動する。そのためには『生贄の門』を2つ通過する必要がある。それなりに日数がかかるけど、まあ月桂秤の壁に沿って行く予定だし、ある程度は短縮できるはず……」
そう言ってアラインは、目にかかる程度に伸びた前髪を少し邪魔そうにしながら、先ほどトラベルショップで上から下まで旅の服装を一式揃えたユウを見た。
ユウは長い銀髪を肩の辺りで二つに結わえ、服装は旅をするのに合ったものを選び、下はゆったりとした感じのダボッとしたパンツスタイルである。背中にはリュックを背負い、その中には先ほどもらったお菓子と着替えが入っていた。
ユウ曰く、本当は赤いつなぎがよかったようだが、旅に似つかわしくないということで却下した。それでも不機嫌そうだったので、仕方なく可愛らしいウエストポーチを買ってやることにした。ユウはどうにかそれで満足してくれた。因みにウエストポーチはユウが稼いだ給料で買ったものだ。
一方でアラインはというと、完全に旅に合った服装をしており、持ち物も最小限に留めていて、腰に巻くタイプのショルダーバッグ一つと少なかった。
こう見るとアラインは一見細身に見えるが、その服の下には日々の仕事で鍛え抜かれた筋肉が隠されていたおり、17歳の少年にしては鋼のようにしなやかな体躯だった。
「門を2つもって……今の話だと、一つ越えるだけでもかなり危険なんじゃ?」
新たに『帝冠クラウン』に関する情報を足していると、早速隣を歩いていたユウが聞いてきた。その声音に憂慮の兆しはなく、確認の質問であることが見て取れる。
アラインはたいした問題ではないと首肯した。
「きちんと対策はしてある。というか、俺はいつもその方法で他のタームを行ったり来たりしてるから、いつも通りのやり方で門を超えるだけなんだけど」
「いつも通り……ああ、そっか『因果歪曲計』か。あれがあれば、どんなルートから行っても不運を避けて通れるもんね」
一人呟いて思い当たると、ユウは得心した様子でアラインに賛同を求めた。しかし頷きは返って来ず、アラインは忙しなく辺りに目配せしながら残念そうに吐露する。
「それができるのが一番なんだけどな。門があるのはタームの境目、つまりセーフポイントを作るには向こう側にも『因果歪曲計』を設置して調節する必要があるわけで……生憎、他のタームの作業は全然進んでないんだ」
「え、そうなの?」
意外そうな顔でユウが聞く。
「運気っていうのは、細部にまでこだわろうとすればするほど移り変わりも細かくなるから、毎回それに合わせようとすると『因果歪曲計』の調整に手間取って、かなりの時間を取られる。特にここ数年は今いるタームを安定させるだけで手一杯だったから、他の場所はまったく手をつけられてないんだ。そんな感じで第2ターム以外は整備されてないから、他での作業は『眸』を使える俺一人だけでするようにしてる」
「じゃあ、どうやって門を通過するの? アラインはともかく、私は因果とかまったく見えないし……あ、でも私は体質でゴリ押しできるか」
閃いた得策にユウが手を打ちかけると、いやいやとアラインは待ったをかける。
「さすがに強行突破は避けたいな。ゴリ押しって要は、その小型『因果歪曲計』の制御を切るってことだろ?」
アラインはさきほどユウに渡したペンデュラムを指差す。
「つまりユウの周りは、また因果の吹き溜まりになる」
「え……うん、そうだけど。なにかマズいの?」
不思議そうにユウは小首を傾げる。アラインは順を追って丁寧に伝えた。
「あの執事みたいに、因果を辿って追いかけて来る奴がいるとわかった以上、あまり俺たちの居場所がバレるようなことはしたくないからな。さっきも言ったけど、執事の他に刺客がいないとも限らないんだ。もしまたあんなのと遣り合うことにでもなったら、勝つのはもちろん、逃げ切れる自信もない。だから今回はその方法は見送りたい。それを解除するのは、いざというときにだけだ。約束してくれるか?」
ユウの首から下がるペンデュラムを指差すと、アラインは真剣な眼差しでユウに合意を求めた。理に適った理屈にユウも納得する。が、問題が解決したわけではない。
「それはいいけど……じゃあアラインの言う対策って、具体的になにをするの……っていうか、なんかさっきから探してる?」
対策の中身を聞こうとするユウだったが、それよりも先程からアラインがなにやらキョロキョロしていることが気にかかり、訊ねずにはいられなかった。気づけば『生贄の門』へ向かうはずの順路もわずかに逸れて、今は人気の少ない路地を通っている。
「ああ、ちょっと必要なモノを探して……」
アラインが片鱗を捉えたのは、そのときである。先刻から密かにピントを絞るように『眸』の効力をチューニングしていた眉尻は、獲物がセンサーにかかるや力むと、刻まれたしわと同時に眼光も鋭利になった。見据えるのは、人通りの少ない細い一本道。
狭い通りには錆びれた民家がぎゅうぎゅうに並んでおり、大通りの賑わいから孤立して、静けさが場を制している。かといって別段廃れているわけでもなく、等間隔で看板が置かれていたり、窓際には洗濯物などが干され、ひっそりとした生活感が漂っていた。
アラインは無言で路地へと入っていくと、それに続いたユウは、すぐに変化に気づいた。
もう何度も吉凶地帯の話を聞き、そして今自分たちが不幸地帯の方角へと進んでいると自覚しているからだろう。ユウは周辺の建物が、さっきまで歩いていたところと比べ心なしか物悲しく、閑散としているように思えた。
決して大通りより劣っているというわけではないが、建築に使われている素材や塗料、建物の造形や耐久度、その他細かな立地などが、今まで過ごしていた場所の平均水準よりも若干、下降気味なのを無意識に感じる。
悪く言えば、街の全体的なレベルがグレードダウンしているように見えた。
辺りが住宅地ということもあるのだろう。それらは意識的に観察しなければ気づけないほど小さな事柄である。しかしユウはそのことを口には出さず、それよりもアラインの動向に関心が向いていたため、黙ってあとを着いて行った。
やがてアラインは、通りの中でも一際古びた店の前で足を止める。
もう何年も使われていないのか、年季の入った木造の随所には錆や黒ずみが見られ、その外観からこの店が数年前に廃業したことが窺えた。
と、茶色く色褪せたシャッターと地面の間に、小さな隙間を見つける。アラインはおもむろに屈むと、なんの躊躇いもなくシャッターを開けた。
許可なく他人の店を勝手に開けるアラインに、しかし今さら驚くユウではなかった。
これまでアラインと行動をともにし、そこには必ず意味があり、その過程と結末を何度も間近で見てきたからこそユウは、信頼の眼差しで経過を見守る。
だが、そのことと胸の内で湧く好奇心は別だった。ユウはアラインに続いて薄暗い店内に足を踏み入れると、肺に入れたかび臭い空気を「ほわっ」と吐き出す。
店内は長らく換気していなかったせいで埃が積もり、湿気でじめじめしていた。ずんずん奥へ進むアラインとは対照に、ユウは少し体重をかけるだけで軋む床に用心しながら、物珍しげに店内を見回す。密室での暮らしで抑制されていた好奇心は今も健在で、瞬きすら惜しいとばかりに空の商品棚や謎の商売道具を忙しなく眺める。
ユウが周囲に目を奪われている一方で、アラインもまたとある一点を凝視していた。その視線の先には、なんの変哲もない商品棚が並ぶ。アラインは息を潜めながらそっと近づくと、壁に沿うようにして後ろの隙間を覗く。
奥には古びたいくつかのコードが伸びていた。それらの配線は壁の中へと続いており、その壁の周りには、コードを通すには大き過ぎる異様な穴が開いている。
刹那、アラインは力任せに商品棚を引き倒した。倒れるというよりは、叩きつけるような騒音が店内に響くと、よそ見をしていたユウは突然の爆音に飛び跳ねた。
何事かと振り返れば、道具類を散乱させながら倒れた商品棚の横で、舞い上がった埃に塗れたアラインを見つける。
「なに⁉ どうしたのアラ――」
投げかけた問いは、棚の裏に空いていた穴――薄暗闇の中で一瞬だけ映った小さな人影を見つけるや、即座に中断した。壁の中からトタタと走る足音がする。
小動物のような足音は素早くあちらこちらに移動すると、あっという間に床下の換気のために作られた狭い空間へ移ったところで、ピタリと音が途絶えた。
通常であれば、向こうにこちらの動きを勘付かれた時点で、これ以上の追跡はほぼ不可能だろう。だがアラインは素人ではない。
棚を倒した段階で数手先まで読んでいたアラインは、次の瞬間には、半分腐っていた床を板ごと引っぺがしていた。古びた木材はバキバキと折れながら簡単に剥がれると、これまた虫食いだらけのボロボロの骨組みが露出する。
今度は、より明確にその姿を捉えることができた。
人型にして奇形で、小人に例えるには不気味な佇まいのそれは、仄暗い骨組みと地面の間を駆け回ると、まだ捲られていない床下へ姿を晦ます。途中何度かネズミ捕りがバチンと跳ねる音がすると、その度に床下のすばしっこい足音はでたらめに方向転換した。
されど小動物より知性を持ったそれは、簡単に捕まる様子がない。その間にアラインは壁際に移動すると、再度足元の床を引っぺがす。
木漏れ日のような光明が差し込むのと、それが足元を通過したのは同時だった。アラインは獲物の逃走経路を予測して、見事に先回りしたのである。
しかし捕獲するには、向こうの方が素早かった。獲物は突進する勢いでアラインの目の前を駆け抜けると、前方のネズミが空けたと思われる小さな穴へと突っ込む。
直後、アラインは波動を放つが如くバッと手を伸ばすと、指先から虹色に光る細い糸を暗闇に向けて放った。その正体は、因果によって紡がれた繊維であった。
5本の因果は見事姿の見えない獲物に巻きつくと、まるで釣り糸のようにピンと張り詰め、完全に獲物の動きを止めた。
一連の様子を見ていたユウは理解が追いつかなかった。アラインが手を伸ばしたかと思えば、突然獲物が首根っこを掴まれたかのように動きを止めたではないか。
そして今は、アラインは見えないなにかを引っ張り、獲物は手綱を引かれるようにアラインの方へとズルズル引っ張られている。けどそれら不可思議への疑問は、アラインが捕えた獲物を手に持ち上げた瞬間、即座に凄まじい興味によって塗り替えられていく。
アラインが捕まえたのは、やけに腹回りの太い、不格好な糸人形だった。
その個体は、以前アラインが時計塔で『因果歪曲計』のメンテナンスをしていたときに見た、ダースロウがちょっかいをかけてきた男を用いて編み出した人形とは違う、まったく別の個体だった。そもそもフォルムや大きさが似ても似つかない。
狭く埃っぽい場所にいたためか、煤けて汚れた生地はボロボロで、糸もところどころ解れており、すでに左腕の肘から下が千切れてしまっている。
不格好なのはそれだけではない。左右で長さの違う手足は奇妙にねじくれ、湿気でゴワゴワになった体からは細く縮れた糸が飛び散らかる。本来なら衣服をイメージさせるはずの水色の上半身と茶色の下半身も、泥とカビのせいで変色してしまっていた。
その様相はさながら、説明書通りに作ることのできなかった100均の手作りキットを彷彿とさせる。
人形が自我を持って手足をバタつかせているだけでもホラーだというのに、素人が手がけたか、あるいは制作に失敗した手作り人形のような見た目も相まって、執拗以上に不気味さが増していた。よく見れば目や、よくわからない他のパーツもいくつか取れかかっており、それぞれが首の皮一枚ならぬ、細い糸一本でギリギリ繋がっている。
「アライン、なにを……」
「うーん、もう少しデカいと思ったが」
アラインの行動の意味も、いったいなにを捕まえたのかもわからぬまま、ユウは激しい狩猟を終えたばかりのアラインに声をかけると、そんな独り言が返ってきた。
「え?」
ユウが思わず聞き返してもなお、アラインは一人奇妙な人形を値踏みする。
その慎重な目つきは、長年の商売人の経験によって培われただけあって隙がなく、捉えた獲物の商品価値を見定めるように、疑いの視線で布の塊を吟味する。
「でもまあ2人分に届かなくても、1・5人分越えてれば十分足りるか」
合格水準に達していたのか、アラインは呑み込んだような素振りを見せると、ようやくユウに向き直って準備が整ったことを伝えた。
「待たせたな。必要な道具は集まったから、どうにかなりそうだ」
「必要?」
「さっき言ってた対策の話だよ。あとはどこまで誤魔化しが通じるかだな」
なんのことかと首を傾げるユウに答えたあと、アラインは獲物が暴れぬよう因果の糸でさらにグルグル巻きにしながら、悪巧みするように微笑む。それからぐるりと空き家の中を見回すと、「おっ」と声を上げて壁に掛けてあった二着のフードを手に取った。
「ちょうどいい。これももらっておこう。ほら、ユウ」
アラインは埃塗れのフードをひったくると一着をユウに投げ渡す。渡された際に埃が舞うと、ユウは「ケホケホ」と咳をした。
その色褪せた埃まみれ汚らしいフードを嫌そうに手を伸ばして指先で摘まみながらユウが見ていると、その横でアラインはなんとそのフードを着込み始めたではないか。
どうやら着ろと言うことらしい。
「え、そのまま着るの⁉ せめて埃払おうよ!」
なんの疑問もなくアラインが埃塗れのフードを着込むと、ユウはすかさず絶叫した。アラインは一瞬面倒そうな顔を見せると、着たあとでパンパンと叩いて埃を払う。
その様子を見たところ、どう足掻いても着ることは決定らしい。ユウは仕方なく汚らしいフードをバサバサ払うと、心底嫌そうな顔をしながら袖を通した。
意思を持って動く人形のことや、今目の前で操っている出所のわからない指先の糸のことなど、気にかかることはいろいろとあった。
だがそれはあとできけばいいかと自分の中で完結すると、取り敢えずアラインに新しいフードを買わせる算段を取り始めた。
◇
「ああいうおもちゃが流行ってるの?」
表通りに戻り、再び『生贄の門』を目指して歩いていたときのことである。持参した大きめのショルダーバッグの中で、先程拘束した糸人形が観念した様子で横たわっているのをアラインが確認していると、頭までフードを被ったユウがそんなことを問うてきた。
「おもちゃ?」
藪から棒に聞かれると、ユウと同じくフードを頭まで被ったアラインは、言葉足らずな質問にぽかんとした。
その様子から相手が理解していないことを読み取ると、ユウは丁寧に説明する。
「さっきの動く人形……。ネジを回したりするタイプはいくつか見たことあるけど、あそこまで自由に動き回るやつは初めて見たから」
詳細を伝えられると、ようやくアラインは得心した。そういえばまだ、糸人形のことについて、きちんと教えていない。
「ああ。これは――」
言いかけて、ふとアラインは、安易に情報を漏らしていいものかと思案する。
それは悪い癖のようなものだった。仕事柄、日々『因果歪曲計』関係のことで隠密行動をし、限られた人員とだけやりとりしていたアラインは、反射的に相手になにをどこまで話すべきか、慎重に見極めようとしてしまう。
言い淀むアラインに、ユウは続く言葉を上目遣いで待っていた。二人で行動をともにする以上、隠しごとなど言語道断。むしろ情報を共有し合う必要がある。
ユウは植物園で月桂秤のことや自身の出生について洗いざらい話してくれた。ならばこちらも知っていることを提示するのが筋だろう。信頼関係を築くならなおのこと。
アラインはすぐに打算的な思考を捨て、糸人形について語った。
「これは、いわゆる遊びで使うようなおもちゃじゃない。人から抽出した因果で編まれた人形だ。少しだけだけど自我や知性もあって、さっきみたいに動き回る。国のあちこちで目撃情報もあるくらいだし、それほど珍しいものでもない」
「人の因果って……それ、取って大丈夫なの?」
「まったく大丈夫じゃない。種類や量によって影響はまちまちだけど、こいつらの悪戯で因果を搾取された人間は、その因果の司る運気が低迷して、努力しても報われにくくなったり、不運に遭いやすくなる。つまり奪われるのは運命ってことだ」
「運命……あ、そういえばアラインって因果が見えるんだよね? もしかしてその人形も能力を使って見つけたの?」
「お、気づいたか。その通り」
見事正解に辿り着いたユウに、アラインは微笑む。
「こいつらをたまに見かけることはあっても、普段は隠れてるから普通に探そうとすると難しいんだ。でも俺からしたら、こいつらはユウと似て運命の塊みたいなものだから、『眸』を使えば簡単に見つけられる」
「ああ、そういえばアラインもさっき、私のことすぐに見つけたよね」
「あれは特別だよ。ユウや人形……それとあの執事みたいに、規格外の因果をまとってる奴なら明確な違いがあるから、すぐに見分けがつく。でも一般人だと、それほどたいした差なんてないから、人探しにはほとんど役立たない」
言いながらアラインは、幼いころに能力を使って何度か人探ししたときのことを脳裏に浮かべる。そして個人の識別のための鍛錬や試行錯誤の末に、時と場合と普段の行いによって都度禍福の状態が変化することを知ってからは、能力に頼るより人伝に探した方が効率的だと学んで、この方法は使わなくなった。
それがまさか、今になってからこう頻繁に応用する場面が増えたのだから、まったくもって人生とは、どこでなにが起こるのかがわからない。それは『眸』という異能で因果を見ることのできるアラインでさえも、読むことのできない展開であった。
そしてユウが思いの外、勘が鋭かったということも。
「そうなんだ。でも、因果を見られる……ってことは、それを編んだり奪ったりすることもできるってこと?」
探るような問いかけから、ユウが真相に迫ったことをアラインは悟った。
まさかアラインが他者から因果を奪い、人形を生成しているのではないかと疑っているわけではないだろう。だが、それに準じる能力を持った人物が、アラインの他にもいる可能性に勘付いたようだ。その違和感はもっともだった。
国のあちこちで目撃情報があると聞いて、全国にばら撒ける数の人形を、たった一人で作りだしていると考える方が無理な話だ。
ならば、別の能力者の存在を思い浮かべるのは至極当然だろう。だがアラインは、今そのことに触れるつもりはなかった。なにも秘し隠しておくわけではない。今はまだ然るべき場所でも、タイミングでもないだけだ。
「続きは『生贄の門』に着いたときに、な。実際に見ながらの方がわかりやすいだろうし」
この話は一旦終わりだというように、アラインは人形の入ったポーチを閉めた。あとできちんと教えることを暗に伝え、まだそのときではないと再び前を向く。
含みのある言葉尻に後ろ髪を引かれるユウだったが、アラインの雰囲気から慎重な面持ちを感じ取ると、素直にその方針に従おうと進む先を見据える。
高く荘厳な神殿が、天と地を遮るように建設されていた。堺のなかったはずの空は、神殿との距離が縮まるごとに目の前が固く冷たい城壁に覆われ、空が向こう側へと消えていく。もし、もう一度紫に浸透した空を拝みたければ、目前の神殿から離れるか背後を振り返るかすれば、またいつでも好きなだけ眺められるだろう。
けれどタームを隔てる境界はそうはいかない。ただでさえ高層の神殿は、月桂秤の白い城壁から始まり、真っ直ぐに世界の淵まで伸びていた。
壁に沿って設置された無限とも思える柱、その一つ一つの間にアーチ状の入り口があり、横一列に並んでいる。どれもが奥の空間へと続いていた。
当然入り口以外に抜け穴はなく、その厳格な佇まいと徹底した警備網からは、別タームの住民による不可侵領域への侵入を許さないという圧と、絶対的な意志を感じた。
「街の中に壁? 建物……?」
月桂秤を囲う壁とは違う、建造物とも障壁とも取れない宗教画的な巨大な隔たりに、ユウは困惑気味に呟いた。古代の歴史を感じさせる外観。
だというのに、どこか近未来的な雰囲気の漂う神殿の雰囲気にユウが当惑していると、すかさずアラインは言い継ぐ。
「ターム同士を仕切る大きな壁だ。タームと同じでこの壁は全部で4つある。そしてあの中に、これから向かう『生贄の門』が入ってる」
「4つの壁……っていうことは、『生贄の門』も4つあるってこと?」
「そう……だな。あれを何個と捉えるかにもよるけど、大きな括りで見たら、その方が数えやすいかもしれない……」
アラインは悩ましげに言うと、後半はほぼ自分に確認を取るように呟いた。
歯切れの悪い返答に引っかかりを覚えるユウだったが、しかし歩を進めるごとに徐々に神殿が目前で膨らんでいくと、その荘厳さに意識のすべてを吸い寄せられる。
神殿の前は、街での雰囲気とは別の意味で大勢の人で溢れ返っていた。にもかかわらずどこか閑散とし、鬱々とした雰囲気の漂う空間にユウは目を見張る。
まず初めに関心を引いたのが、この鬱々とした空気を作り出していると思われる路上生活者たちだった。まるでどこかの紛争地帯から逃げ出してきた避難民のように、老若男女の入り乱れた困窮者たちは、神殿をバックに路上にシートを敷いて野宿している。
木の板やシートで作った簡易的な住居に居を構えるのは、見た目的には怪我を負っているようには見えない住民。服装もファッションを無視していることを除けば、五体満足で生活しているように見える。ここでキャンプをしているのだと言われたら、素直に頷いてしまうくらいには深刻さは窺えない。それこそが見えない貧困による恐ろしい罠だった。
彼ら彼女らが見るからにボロボロな服を着て、体のどこかに欠損や不自由の一つでもあれば、誰でも即座にここにいる人たちが援助を必要としていることに気づけただろう。
しかし昨今巷で出回っている安物でも生地のしっかりした洋服は貧困者のようには見えず、骨と皮だけになるほどにはガリガリに痩せていない様相が裏目に出てしまい、この惨状を見た者が困窮者たちに幾許かの余裕を見出せるよう、ミスディレクションが働いてしまっている。
人はどんな事柄であろうと、実際に被害が出るか、一目でわかる状態でなければ現状を認めようとしない生き物だ。この地味な見た目の根深い闇は、余裕のある立場の者たちからすれば、堕落や甘えの象徴としか見なされないだろう。そこはまさしく無法地帯だった。
そしてユウもまた似通った思考に陥っていた。
「凄い人の量。みんなテントみたいなの建ててるけど、もしかしてずっとここで待機してるの? 列も外まで続いてるし、これだと中に入るだけでも何日もかかりそう……」
長年隔離生活を強いられていたことを考慮すれば、ユウのこの浮世離れした発言も仕方なく思う。だがこれが世間一般の声だったら別だ。それは現状把握能力と危機管理意識の欠けた、身近に迫る危機に気づけていない軽はずみな意見である。
と、思わずそう糾弾したくなる思いをぐっと堪えて、アラインはユウに訂正した。
「あれは列じゃなくて門を越えられない人たちだ。あそこにいるのはみんな行く当ても帰る場所もない日陰者。通行許可が下りるまでずっとあそこに留まってる」
「悪いことをした人たちなの?」
「そういうわけじゃない……けど、そういう人も何人かはいるのかもな――ほら、あそこが入口だ」
国の福祉制度の敗北の証を前に、アラインはどう答えたらいいかわからず、誤魔化すように神殿の内部へ行くための道を指差した。そこでは月桂秤の壁と違い、人の行き交いが盛んで大勢の人々が出入りしている。
なるべく目立ちたくなかったアラインは前回同様、迷子防止のために早速ユウの手を取ると、そそくさと入口へと移動した。
特にここからは人通りも多く治安もいいとは言えないため、離れ離れになることだけは避けたい。こういった場所での立ち振る舞いを心得ていたアラインは、誰かと目を合わせることも無駄な動作もなく颯爽と通り抜ける。
一方でユウは頻りにキョロキョロと振り返っては、路上生活者たちへと目を向けていた。
文字通りお嬢様であったユウにとっては、開放的な空間で大胆な生活を営む者たちは珍しいようで、動物園や博物館に来た観覧者然とした挙動でホームレスたちを観賞する。
当然そんな好奇の視線は、路上生活者たちには好ましくなかった。
初めて野良猫でも見つけた乳児のように純粋な目つきは、この生活で培われた彼ら彼女らの野生の本能を刺激し、獲物、あるいは己の尊厳を嘲笑う敵と認識させる。
それは起こるべくして起こった。
アラインに手を引かれたユウが相変わらず辺りをキョロキョロと興味津々に見回していると、頬のこけた狐顔の中年女性と目が合い、そのまま2秒ほど見つめ合う。
「なにジロジ――」
「前見ないと危ないぞ」
まさに今、中年女性がユウに噛みつこうと声を荒げかけたときだった。アラインは飛んできた難癖を被るようにユウにそう注意し、すかさず握っていた手を引く。
自然、引っ張られたユウはその場から距離を取り、視線もアラインの方へ向く。
変なタイミングでいちゃもんを遮られると女性は思わず言を止めた。
だがすぐに再び噛みつこうと口を開けるが、すでにユウは足早に前を行くアラインに連れられて宮殿の内部へ消えてしまったため、結局憤りは消化できず舌打ちする。
難なく面倒事を回避するとアラインは嘆息した。ユウの幸福体質を一時的に抑制している今、本人の天然気質な行動はゴタゴタを呼び寄せかねない。
そしてペンデュラムでユウの幸運を押さえている今、容易にアクシデントに巻き込まれてしまうだろう。ここはユウの保護者として、用心堅固を心がけるべきところだ。
やがて門の中に入る。するとユウはそこに広がる景色に「わあ」と声を上げた。
門の内部には、小さな集落然とした景観が横一列に広がっていた。
前後の壁際には無数の露店があり、空間が続く限り延々と並んでいる。その間を、商品を持った販売人が横断し、その隙間を縫うように他の歩行者たちが窮屈そうに歩いていた。
床に居を構えていたのは販売人だけではない。隅っこの方に目をやれば、門の出入り口同様、行き場を失った者たちが寝そべったり足を抱えて座っていたりする。
門の内部に広がっていたのは、なけなしの希望をはたいて行きついた、絶望の淵に立たされた人々によって形成された、小さな乏しい街だった。
「なんていうか……人がいっぱいいるね」
致命的な言葉は避けるようにユウは漠然とした感想を口にした。
どうやら口に出してはいけない言葉があることを自覚する程度には、社会常識を身につけたようである。なんとも絶妙な表現に、アラインはそうだなと頷く。
「ここには、すべてを投げうってでも運命を変えたい人が集まってる。ここも昔はただの通行場所だったらしい。でも長い時間が経ってここに居座る人が出始めてから、そこに目を付けた商売人たちが店を構えだして、ちょっとした市場が完成したって話だ。にしても今日はやけに多いな……」
いつにも増して人口密度が高く、なかなか前に進めなかった。軽い渋滞に捕まると、二人はいつしか足を止めて立ち往生してしまう。声をかけられたのはそのときだった。
「へっ、お前たちも噂を聞きつけてやって来たくちかい?」
前進できずに八方塞がりになっていると、ここで暮らしていると思しき住民の中年が話しかけてきた。
「噂?」
平常であればこんな低俗な輩の世迷言など無視するアラインだったが、なにやら事情を知っていそうな相手の口ぶりに、今回は耳を傾けた。
すると反応が返ってきたことが余程愉快なのか、その場に座っていたホームレスたちはアラインに興味を示すと、挙ってちょっかいをかける。
「そんな少ない荷物で向こうでやってけると思うのか? 世間知らずだねぇ」
「あたしらはバラされる人たちを何人も見てきた。やめとけやめとけ」
「その若さで人生捨てるのは早過ぎる。ガキは帰れ。生半可な奴が来るとこじゃねぇぞ」
なにか有力な情報が得られると思ったが、思い違いだった。輩たちは肝心の中身を端折ると、口々に面白おかしく野次を飛ばして下品に愉悦する。
よもやこれ以上の問答は時間の無駄だと、アラインは即座に見切りをつける。
その一方で輩たちの意味深なざわつきも無視はできなかった。
(なんだ、さっきからこいつらから沸く異様な熱量は。なにかあるのか?)
さて、どうしたものかと黙考したときだった。神殿内が不意にざわつきだす。
「なに? みんなどうしたの?」
異変に気づいたユウは頻りに辺りを見回すとアラインに聞いた。しかしアラインにもこのどよめきの理由がわからず、答えるに答えられなかった。
だが間もなくして、アラインはその真意を知ることとなる。
なおも大きくなり続ける喧騒と一緒に、道の奥の方から人波が左右に割れていく。アラインは何事かと目を細めるが、そんなことをせずともすぐに事態はハッキリした。
前方から黒装束の集団――ダースロウの一団がこちらに向かって来ていた。
どうやら騒ぎの原因は、あの者たちの来訪によるものだったらしい。
絶え間なくダースロウたちが奥から進んで来ると、目をつけられたり接触されることを恐れた人々は、彼らを避けるようにして一斉に、そして強引に道を開けた。
「ハッハァ! 噂の奴らがやって来たぞ! やっぱり今日だったんだ!」
「さっさと道を譲りな、臆病者ども! でないと運命狂わされちまうぞぉ!」
アラインがダースロウの登場に釘づけになっていると、先程こちらにちょっかいをかけてきた連中が、今度は全体に向かって吠えだした。
なるほど。噂というのは、どうやらダースロウ関連のことだったらしい。
アラインはそう得心が行くと同時に、ユウと逸れぬよう彼女を傍に引き寄せた。
「なに、あの人たち?」
どう集団を遣り過ごそうかとアラインが考えていると、ユウがそんな質問をした。
「ダースロウ。通称、軸の番人――さっき捕まえた人形を作った張本人たちだ。不用意に近づくなよ、あいつらは人の因果を狂わせる怪しい術を使う。一度目をつけられたら最後、人生を台無しにさせられるから気をつけろ」
手短に説明するとアラインはユウを引っ張って人込みに紛れ、ダースロウたちから見えない位置に身を隠した。そのすぐ隣の通路で黒装束の集団が移動していく。
彼らと鉢合わせたくなかったアラインは、ダースロウたちが通り過ぎるまで屈んで、ひっそりと身を潜めた。
やがてダースロウ一行が通り過ぎるころ。一拍遅れてそのあとを、まるで小さな希望に縋るかのような顔つきで一定の距離を保ちながら、数人の人々がついて行く。
「今日は大量だな。ちょいと観覧にでも行くか」
そんな彼ら彼女らを見ると、先程まで野次を飛ばしていた野蛮人たちまでもが動き出した。数奇な運命を辿る者たちを、まるで肴の摘まみにするように様子を見に行く。
「そうか、今日はあいつらもここを通過する日だったか……」
「アライン?」
「丁度いい。俺たちもあれに着いて行こう」
アラインは誰にともなく呟くと、状況がわからず困惑しているユウの手を引いて、今なおダースロウのあとを着いて行く人々に交じって、同じ方向へと進んで行った。
「え、アラインどうするの⁉ ダースロウ? とは関わらないんじゃ……?」
いきなり状況に映る相棒に当惑するユウ。それにアラインは力強く言った。
「俺にいい考えがある。大丈夫だ、任せてくれ」
アラインはユウの不安を払拭するように言うと、集団に着いて行くよう催促する。
ダースロウを畏怖する者たちの間を擦り抜けながら、恐怖心すらかなぐり捨てた前を行く人々に交じって、ダースロウを追って長い通路を進んでいく。
と、不意に集団が止まった。すると前方の方から重い扉の開く音が響き、再びアラインたちは歩き出す。二人は大きな門を潜ってどこかの部屋へと入っていった。
やがて列が完全に止まると、後方でそれまで空いていた巨大な扉が閉まる。
刹那、上方の各所から歓声が沸いた。何事かとユウは周囲を見渡す。
そこはコロシアムのような会場だった。上を見上げれば何十人という見物人たちがこちらを見下ろしており、罵声とも喚声ともつかない声を上げている。
「なにここ……? これからなにが始まるの?」
「見てればわかるさ。それよりもユウ、俺から離れるなよ」
突然見世物のような扱いを受けてユウはたじろいだ。
そんな彼女に、アラインは大丈夫と声をかけると、自分たちを眺めている観客たちを無視して正面を見やる。外からの光りの届かない、不気味に青白く発行する奥底。
そこにはまるで何枚もの小さな汚いボロキレをパッチワークのように縫い合わせたような、奇妙な膜が張り巡らされていた。膜は薄い光をまとっており、暗い部屋ということもあって不気味さが増し、見る者を不安な気持ちにさせる。
「あれは……なに?」
「あれはタームを隔てる扉――『生贄の門』だ」
奇妙な物体にユウが眉をひそめると、アラインは前方を睨みながら答えた。
「ああ、あれが夢にまで見た扉……」
「これさえ越えられれば、新しい人生が待っているのね」
漠然と前方を見据えていると、そこかしこからそんな譫言が聞こえてきた。それは人生に敗れた者たちの囁き。そして新たな命運へと思いを馳せる望郷だ。
周囲が騒めいたのはそのときだった。前方の膜が震えると、ボロキレを縫い合わせた隙間から淡い光りが漏れ出して、厳かな部屋全体を薄暗く照らす。
それはタームを越えるための通過儀礼が始まった合図だった。
ほどなくして前方から歓声が沸く。異変に気付いた人々が正面を見つめる中、アラインは直立不動のまま、ユウは人の隙間から顔を覗かせてその景色を見やる。
淡く光る前方の膜には、あらゆる表情の顔面が張り付けられていた。あらゆるといっても、ポジティブな形相のものはなかった。そのどれもが多種多様な悲しみや苦しみ、哀愁に満ちており、明るい面貌のものは一つとして見当たらない。
「アライン……? あれはいったいなに?」
なんとも趣味の悪い芸術品に、ユウは軽蔑の眼差しを送りながら問う。
「あれはこれまでダースロウに因果を奪われた犠牲者たちの寄せ集めだ」
不気味がるユウに応えるアライン。それでもまだ納得がいっていないのか、ユウは巻く全体に張り巡らされた表情を、一つずつまじまじと見つめる。
それぞれの顔面が爆ぜたのはそのときだった。それまで苦行に満ちた表情をしていた顔は解けるように爆散すると、糸の集まりのような触手を会場全体に広げる。
「始まったぞ! 通過儀礼だ!」
誰かが叫ぶと、それに合わせて会場が沸いた。次いでそれまで滞っていた列も一気に動き出し、膜を通過しようとしたものが我先にと前方に出てくる。
最前列では、ダースロウの集団が膜へ向かって歩き出していた。
それを見た者たちは、次は自分が膜を越えるのだと意気込んで突っ込む。それが彼ら彼女たちの、人間の形を保っている最後の姿だった。
膜から漂う糸や触手が先駆者に触れた瞬間、触られた箇所から因果が放出する。まるで幻想の刃で切り付けられたかのように、開いた傷口からこれまた糸のような因果が揺蕩うと触手に絡め取られて、対象の人物は徐々に萎んでいく。
途端に会場のそこかしこから悲鳴が上がった。それらは犠牲になった者たちの叫びであり、まだ無事であった者は、ダースロウに紛れれば膜を通過できるのではないかと、愚直にも挑んで前に出る。だが結果はみな同じだった。
ダースロウたちが次々と膜を越えていく中、触手に触れられた者、或いは膜に触れた者たちは順に因果を奪われると萎んでいき、残った搾りかすはそのまま因果の触手に絡め取られ、膜の一部に組み込まれてしまう。
その有様はまさに地獄絵図だった。なにかの罰を受けているのかと疑うほどにそこには無残な光景が広がり、誰も彼もが膜に取り込まれて行ってしまう。
「アライン、どうなってるのこれ⁉ 通過儀礼って⁉」
まだ後方にいたアラインとユウは無事だった。
そしてユウは眼前に広がる惨たらしい惨状に慄き、アラインにしがみつく。
「通過儀礼って言うのは、要するに自分の運命をあの膜に献上することだ。あれらが満足する程度の因果を渡せば、その一部が開いてタームを超えることができる。でも差し出した因果の代償は今後の人生を大きく左右するほど大きいから、まともな奴はリスクを冒してまでここを渡ろうとはしない。だからこの回転国家の国民は、別のタームへの移動は余程のことがない限り滅多にしないんだ」
「じゃあどうやって渡るのっ? このままじゃ私たちも――」
ユウの言葉は、しかし隣から上がった悲鳴に遮られて聞えなかった。だが、言わんとしていることは理解できた。そしてそのための準備もきちんと用意してある。
「ユウ、俺たちも行くぞ! 手を離すなよっ」
アラインはしっかりとユウの手を掴むと、周囲の触手を避けるようにして進みながら、確実に膜の方へと進んで行った。ユウもアラインを信じて必死に前に出る。
間もなくして二人は最前列に出た。すでにダースロウは渡ったあとなのか、その姿は一人たりとも見受けられない。それでも周囲ではまだ人々が逃げ惑っている。
アラインは前に出ながらショルダーバッグを漁ると、中から先程捕獲した糸人形を取り出した。そして膜の真正面まで近づくと、それを高々と掲げる。
「道を開けろ! 通行料はきちんと用意したぞ、ここを通せ!」
叫び、膜の一つの顔に語りかける。すると呼びかけた顔がそれに答えた。
『1・5人分ダ。アト少シ足リナイ』
「それでいい。なにも問題ない。だからここを通せ」
『イイダロウ。タダシ、足リナイ分ハ、オ前ノ体デ払ッテモラウ』
「やってみるといい――因果を奪えるものならな!」
膜からの返答に、アラインは自信に満ちた声音で宣言し、手にした糸人形を膜に見せつけるように高く掲げた。
するとアラインが持っていた糸人形が触手にさらわれ、空中で分解される。
バサバサとフードがはためく中、糸人形の生地が解かれていくと、中の綿や目や口の部分まで解けていき、目前の膜に吸収されていく。前方が開けたのはそのときだった。糸人形に詰まっていた因果を吸収すると、膜の一部が霧散し、先へと続く通路が出現する。
『ああ……これでようやく自由になれる』
『ありがとう、若い人。これで安らかに眠ることができそうだ……』
道が切り拓かれた直後、膜に張り付いていた顔は糸が解けたように霧散していく。
その顔は嬉し涙を流すと、いつからそこに張り付いていたか思い出せないほど長く苦しみしかもたらされなかった因果からようやく解放された。苦しみしかなかった表情から生まれたての赤子のような健やかな相貌へと変わり、キラキラと光を放ちながら消えていく。
だがそれに返事をしている暇はなかった。お礼を言われている今もようやく開かれた膜は塞がりつつあり、即座の通過を強いられる。
「ユウ、行くぞ! しっかり掴まってろ!」
「うん!」
手を伸ばすとユウはしっかりとアラインに捕まり、これからなにが起こるともわからない膜の反対側へと抜けるのだと、覚悟を持ってしかと心の準備をした。
膜を突っ切り、淡い光りの中へと呑み込まれていくアラインとユウ。
その姿は黒装束のダースロウたちに紛れ、さらに光の靄に惑わされ、見物人の中に二人の姿を見た者は誰もいなかった。
見物人たちは今なお一方的に駆られていく人々を見て楽しんでいるばかり。
こうして誰一人、二人の人物が無事に通過儀礼を終えたことを知る者はいなかった。
膜の反対側ではない、こちら側の方では――




