第1話
常時紫がかった空の広がる、朝と夜の存在しない世界、国家『帝冠クラウン』。
国のシンボルとして各地に取りつけられた無数の風見鶏は、運気の流れを制御する装置――『因果歪曲計』を設置するのにもっとも適した場所である。劣化や破損以外なら至近距離に近づかれることもなく、我らが『帝冠クラウン』で風見鶏は変哲もない代物なので、執拗に観察もされない。
こちらで用意した『因果歪曲計』搭載のものと挿げ替えることも、今やファッションやガーデニング感覚で多用なフォルムの風見鶏を飾るのが習慣化した近年では、多少形が異なっていても、まず怪しまれることはなかった。
難があるとすれば、細工に適した風見鶏の条件は、人目を避けた高所に設置されたものを選ぶため、高所恐怖症には向いていないことだ。そして素早い設置を必要とされるこの作業に、高所はいささか骨が折れる。
ネジ一つ回すのにも、部品を落とさぬように細心の注意を払いながら、慎重に手元を動かさなければならない。
今だって、時計塔の天辺のすぐ下に位置する、四方の屋根に取りつけられた四つの風見鶏のうちの一つに細工した『因果歪曲計』を修理するのに手間取っていた。しかも塔というだけあって周囲には遮蔽物がなく、地上から丸見えなので人目につけば一発アウトだ。
誤って工具を手から滑らせようものなら、物音に気づいた下界の住民が即座にこちらを見上げるだろう。最悪怪我人も出るかもしれない。
修理中に運悪く変えの利かない部品を落とせば即座に作業を中断し、目を皿にして砂の中から石ころを探すような途方もない捜索に、貴重な時間を割くこととなる。それほど高所の作業は繊細でシビアなのだ。
そもそも論として、無許可で国のシンボルを弄っている時点で国旗損壊罪なのだが。
しかもそれが、こともあろうに行政庁の敷地内にある、立ち入り禁止の文化遺産に取りつけられているものを弄ったとなれば、罰金どころではない。
こんなところを警備隊にでも見つかって捕まれば、よくて禁固、最悪処刑だろう。
だが、それだけの危険を冒してでも、作戦を遂行しなければならないのだ。
今後自分たちに降りかかるだろう災難を先読みし、安住の地を手に入れるためには。
「だからこれ以上みんなの不安を煽るのはやめろっつってんだろ!?」
「変な予言ばっかしてさ、それが他人の迷惑になってんのわかんないの?」
と、時計塔の上で慎重に作業を進めていると、どこからか怒声が木霊した。やけに喧しい声に、フードを被った青年――アラインは手を動かしながら下方を一瞥する。
煤けて虫食いの目立つ汚れた黒装束の集団に、二人の男たちがつっかかっていた。
行政庁には図書館や博物館が設けられており、一部敷地内は見学可能である。利用客も多く、頻繁に人が出入りしているため、多少賑やかでも変ではない。
だが、今回に限っては様子が芳しくなかった。
やけに高い声は落ち着きがなく、急き立て気味の口調からは話し合うと言うより、なんとしても相手を屈服させるという意思が感じられた。捲し立てたあとも、口を半開きにした能面には威厳など一切感じられず、黒装束に向ける非難の目は歪な敵意に満ちている。
一見筋の通った理屈で正義感を前面に出しているが、それも華奢な撫肩と猫背、なによりも何日も洗っていないような脂ぎった不衛生極まる髪質のせいで、すべて台無しだった。
亀のように突き出たストレートネックの上に乗っかったアデノイド顔貌も相まって、その様子は、傍から見たら面倒な正義マンにしか見えない。ここまで行くと、どちらが迷惑行為をしているか見分けがつかなかった。
だがその変人たちお陰で、近々訪れるだろう危機に気づくことができた。
アラインは目を細めると、男たちではなく、怪しげな黒い群れを凝視する。
(黒装束の集団……もうこの辺りでもダースロウの移動が始まってるのか。『因果歪曲計』を調整するペースをもう少し上げないと――いや、それよりも今は、騒ぎが起こる前に早く作業を終わらせよう)
険悪なムードが漂う双方を無視すると、アラインは自分の仕事を急いだ。
一方で黒装束に身を包んだダースロウたちは、目の前の若者たちには目もくれず、障害物を避けるように大回りして先へ進もうとする。
「おい逃げんじゃねーよ! まだ話し終わってねーだろっ」
するとすぐさま若者のうちの一人が、集団の中でも老人のように腰の曲がった、背の低い者の肩を掴み、ぐいっと乱暴に振り向かせる。相手はそのまま倒れかけると、その拍子に頭をすっぽりと覆っていたフードに空気が入り、大きく膨らんだ。
刹那、ダースロウの付けていた不気味な仮面がカランと落ちる。
暗闇に隠されていた秘密に光りが一筋差し込むと、わずかの真実が男の脳裏に焼きつく。
しかとされて真っ赤だった男の顔は、次の瞬間には青褪めていた。
恐怖で見開かれた目はフードの中に注がれ、蛇に睨まれた蛙さながらに硬直する。絶句してなお釘づけにされた視線は、本人の受けたショックの大きさを物語っていた。
ダースロウは地面に落ちた仮面を拾うと、顔につけ直しながら語る。
『――規則を犯したな』
「あっ!? う、ぁぁ……」
低い、喉に痰の絡んだような声音が、今はもう闇に佇んだフードの中から響く。
小柄な体躯からは予想だにしなかった低音に、男は蒼白のまま慄いた。
「おい、なに固まってんだよっ」
連れの異変に気づいて、もう一方の男が動揺しながら肘で脇腹を突いた。ダースロウの凍えるような声を聞いていなかったのか、友人にだけ注視している。
ダースロウが腕を上げると、今度は二人ともそれに気づいた。大き過ぎたゴム手袋をはめたようにダルダルになった皮膚の垂れ下がる手のひらが、怯えた男の方に向けられる。
作り物のように不自然な手は男の顔の前で静止すると、しかしそれ以上接近することはなかった。代わりに名状しがたい威圧感が徐々に男の精神を蝕む。
『我ら『軸の番人』の配剤に則り、因果律を教導する』
形式的な祝詞が終わるやダースロウは手を広げる。刹那、細い蜘蛛の糸のようなものが5本の指の行方を追うように、各指先からふわりと靡いた。
突如現れた糸は、手のひらに収束してまとまると、空中でなにかを編んでいく。
常識では信じられない摩訶不思議な光景に、男はまんまと目を奪われた。
「お前それ!?」
正気に戻ったのは、鬼気迫った声で怒鳴られたときだった。隣を見ると、友人が畏怖の表情を湛えながら、震える指先で漠然とこちらの全身を指している。
視線は自分と糸を行き来していた。男は何事かと己の体を見下ろす。
全身の穴という穴から、何本もの糸が放出していた。
その糸はダースロウの手のひらに集められ、リアルタイムで編み物の材料として変造されていく。