9.スーツの男
ゆっくりと瞼を開けると、目の前はまたあの草原。
(また、ここ……)
姫様を助けて気を失うと、またここに戻ってくる……いや、戻されてしまう。
どうやらループしているようだ。
私、あるいはこの世界が。
いや、その両方かもしれない。分からない。
でも、時間がループしてるって事は……つまり。
(えっ、待って。それじゃあ私、ずっとこの世界から出られないって事……?!)
ループが続く限り、永遠に終わりは来ない。
つまり、ここから『出られない』。
「そ、そんな……!」
私はヘナヘナとその場にへたり込んだ。
これからがない、未来がない。
ここから一生出られない、もう元の世界に帰れない。
(もう、駄目……どうしようもない……)
声は出ない。
涙すら一滴も出てこない。
悲しいとか、苦しいとか、そういうのじゃない。
そういう次元をいきなり飛び越えて……望みがプッツリと絶えた。
いきなり誰かが落とし穴に突き落としたかのように、突然の暗闇が私を包みこんだ。
体がどこかへ引っ張られるような、スルスルと何かに吸われていくような感覚。
といっても、実際の両足はしっかり立っていたけど。
体を包む重い何かはまるで海岸の潮の流れのように足元を包んで、そのままズルズルと私を闇の底に連れていこうとする。
私は、もう……ここで終わるんだ……
ここが私の……
(……っ?!風?)
そんな私の意識を遮るかのような、突然の風。
強い勢いは髪を舞い上がらせ、あらわになった額を軽く撫でていく。
ようやく我に帰ると、コロンコロンと小さな何かがこちらに転がってきていた。
それはブーツの脇にコツンと当たり、ピタッと止まる。
なんとなく見覚えのある色味に、なんだろうとつまみ上げてみると……それは、私が向こうの世界で自分の席に飾っていた、お気に入りのフィギュアだった。
(あれ?なんでここに『ハジ子さん』が?)
カップのハジ子さん。
学生の女の子「ハジ子」のフィギュアで、コップとかの縁に乗せて楽しむ人形だ。
ガチャポンで簡単に買えて、しかもなんかちょっと面白くて可愛い。
社内でちょっとしたブームになっていた。
私のお気に入りのこれは、その中でもレアの三点倒立してるやつ。めっちゃアクロバティック。
他のポーズと同じような澄ました顔して、なかなかすごい体勢なのがポイント。
爆笑というよりはじわじわくる笑いって感じの。
すぐにでも倒れちゃいそうな見た目してるけど、ちゃんとしっかり縁に乗るからこれまた面白くって。
何かの飲み会の時にもらったやつだ。
誰にもらったのか思い出せないけど、確かそうだったはず。
……そうだ。思い出した。
向こうの世界には私を待ってる人がいるんだ。
両親とか家族だっているし、友達だっている。
同僚に先輩達、それに上司だって。
今頃探してるかもしれない。心配してるかもしれない。
スマホだって、向こうの世界に置きっぱなしだし。
きっとLINEなんて未読が溜まってる。
このまま出られないからって、大人しくこの変な世界に篭っている場合じゃない。
私には戻るべき世界があるんだから。
このままずっとここに、なんていられない。
変わらず沈み続ける気持ち、重いままの体。
望みはない。
何か方法を思いついたわけじゃない。
でも、このまま止まるわけにはいかない。
もう諦めよう、ここで休もう、と訴えてくるそれらをぐっと堪えて……顔を上げると。
そこには鮮やかな緑が、視界いっぱいに広がっていた。
(いちいち悲しんでる場合じゃない、なんとか一刻も早く脱出方法を探さないと……よし!)
頭を軽く振り、両頬を思いっきり手で打つ。
ヒリヒリとした程よい痛みが私に渇を入れる。
打ちひしがれそうになる気分をグッと持ち直して……いざ、三周目!
さすがにもうこの世界に慣れてきて、周りを観察する余裕が出てきた。
最初のオークだって、今じゃ全然怖くない。
なんてったって、もう仕掛けが見えてしまったから。
どうやらあれは私があの仲間に加わるためのイベントらしい。
オガミが強さと親切心を周りに見せつけるためのただのギミック。
オークの棍棒が当たる前に絶対オガミの攻撃が間に合うから、焦る必要性ゼロ。
そう思うと一気に余裕が出てくるもんだ。
なんだ、怖くないじゃんって。
この世界での敵は他に魔王がいるけど、それもまたオガミの強さを見せるためのギミックだし。
何もせずとも彼一人で片付くから気にしなくていい。
適当にオガミに話を合わせて一緒に歩いていれば、ストーリーは勝手に進む。
となると、この世界にもはや怖いものなんて何もなくて。
問題はここからどうやって脱出するか……ただそれだけだった。
(帰る事、ただそれだけ考えればいい。かえってそれだけに集中できて、ありがたいかも)
そう思いながら、今回も彼らの仲間に加わる。
いつものハーレム要因三人。
こうして一歩引いて見てみると、あまりにも盲目的でなんかの宗教かと思うくらいだ。
ある意味分かりやすくて扱いは楽だけど……
そもそも、彼女達はいったい何のためにここにいるんだろう?
(まさか、オガミを喜ばせるのが目的とは言わないだろうし)
ふと、歩いているとまた道中で人影を見かけた。
やっぱり今回もなんだか黒っぽい。
いや、黒というより暗い紺色か。
元の世界でなんだか見覚えのある感じの、見慣れた色だ。
長袖で、襟元がVの字に開いてて……中には白っぽいシャツに、青いネクタイ。
紺の上着、シャツに、ネクタイ。
まさか、それって……スーツ?!
(……って事は、現実世界の人?!)
さらに見ようと目を凝らすと、スーツを着た若い男性の姿が見えてきた。
さわやかな黒の短髪。
細身ですらっと背が高く、足も長い。
他のなんだか作り物感バリバリの女達と違ってやけにリアルだった。
アイラ姫以来の、やけに現実的な登場人物。
(ん?あれ、こっちに手を振ってる……?)
大きく両手を振って、こちらに助けを求めてるように見える。
助けなきゃ。
はっきりと助けを求めてるのが見えてるのに、それを放っておくなんて……私にはできない。
でも、オガミは前回彼を殺した。
今回も……そうならないとは言い切れない。
私一人で助ける?助けられる?
いや、魔法すら使えない私が行ったところでどうしようもない。
またオークみたいなのが来たら、オガミじゃないと倒せないわけだし。
(かと言って、このまま放って置けないし……)
駄目元で聞いてみる。
「オガミさん、あれ……」
私の指差す先を見るなり、獲物に気づいた彼の赤い眼はニンマリと歪んでいく。
瞳孔はみるみる細まっていき、蛇のような細い一本線に。
(うわ……最悪。やっぱりコイツに言うんじゃなかった)
「ああ、アレかい?」
そう言って、やっぱりオガミは今度も剣を抜いた。嬉しそうに。
「待って!あの人、こっちに助けを求めて……」
「アレは僕らの敵さ、騙されちゃいけない。ちょっと待ってて。すぐに終わらせるからね」
「終わらせる、じゃなくて!そうじゃなくて!ちょっ、ちょっと待っ……!」
私の言葉が終わるより先に彼は駆け出していた。
今度こそ止めようと私も走り出したけど、彼の方が圧倒的に早くて。
まるで走っている動画を倍速で再生しているかのような、人間じゃないような異常な速さ。
手も足ももやもやとした残像ばかりで、顔や胴体くらいしかまともに見えない。
これもこの世界の力なのかもしれない。
オガミだけ有利にさせようとする、見えない力。
(でも、前はオガミは走り出さなかった。つっ立ったまま、その場で剣をヒュッて飛ばして……でも、今度は変わった。なんで?)
猛スピードのオガミは逃げ出すあの人に追いつくと、勢いのまま右肩を斬りつける。
逃れようと必死に捩る体を容赦なく切り裂く刃。
舞い上がる飛沫。
(……っ!)
上がった悲鳴の生々しさに思わず耳を両手で覆い、叫ぶ。
「やめてっ!もう、やめてぇぇぇ!」
離れていたとはいえ、オガミには聞こえていたはずだ。
でも、その手は止まらなかった。
肩を手で抑え身を屈めたところに、さらに追撃……背中からお腹にかけて、大きく突き刺す。
あの人は力なく倒れ、赤い染みが地面に広がっていった。