2.目覚めたら異世界
涼しい風を頬に感じて眠りからじわじわと意識が戻ってくる。
でも休憩終わり五分前のスマホのタイマーは鳴ってないから、まだ大丈夫。もうちょい寝れる。
目は瞑ったまま、そのままぼーっと。
さわやかな風が私の全身をふんわり撫でていく。
(なんだろう、なんか今日は風が気持ちいいなぁ。森林浴みたいな、草の香りがしてちょっとひんやりした空気で……)
すると突然、ヒュン!と音を立てて体のすぐ側を何かが勢いよく駆けていった。
(まだ休憩時間なのに……誰だよもう、危ないなぁ)
そう思いながらゆっくり瞼を開けると、そこは……
(えっ?)
そこは、だだっ広い草原だった。
(ここ、どこ……?)
目の前の景色に思考が追いつかず固まっていると、ふいに視界の外から何かが目の前に飛び出してきた。
「……!えっ何、なんなの?!」
突然現れた、人間くらいの身長で全身緑色の、人の形をした……でも人じゃない何か。
頭に小さい角が一本生えてて、ガタイが良くてゴリゴリの筋肉質な体。
顔はなんていうか、しわくちゃで鼻が潰れててまるで豚みたいな……お世辞にも綺麗とは言えないような感じ。
RPGゲームとかの敵で出てきそうな……なんだろうこれ、オーク?オーガ?鬼?
ともかく、なんかそんな感じ。
そんな化け物は、握りしめた棍棒を振り上げたままじっと私を睨んでいる。
こちらをじっと見て狙いを定め……鼻息は荒く、殺る気満々。
ふとここで私は、いつの間にか手で棒を掴んでいた事に気づく。
(いや、よく見たらただの棒じゃない……なにこれ、杖?)
いかにも魔法使いの杖って感じの、先がくるっと曲がった太い木の棒。
ハートとか羽とかついたキラキラしたのじゃなくて、結構硬派な感じ。
魔法少女とか魔女っ子というよりは、魔女のお婆さんが使ってそうなやつ。
いつの間にか持ってた。
(誰かが私に持たせた?どうやって?……っていうか、ほんとにここどこ?何なの?夢なの?)
分からない事が次々増えていくけど、今の私にはじっと立ち止まって悩む暇なんてなく。
化け物が手に持つ棍棒がいつ振り下ろされるか、分かったもんじゃない。
こうして頭の中で考えていられるのも、もはや時間の問題。
一刻も早くこの状況を打開しないと……
(魔法使えって事?でもどうやって?そんな……いきなりなんて無理だよ、そんなの分かんないよ……)
魔法っていったって、やり方も何も全然知らない。
どんな魔法があるかすら分かってないのに。
(いや、もうこうなったら……この際もうなんでもいい!どんなのでもいいから唱えないと!早く何かそれっぽいのを……!急げ!急げ私!)
「えっと、あれよ、あれ……燃えるやつ!えっと……ふぁ、ふぁ、ファイヤー!」
しかし、炎は現れず。
そこにはただ、草がそよそよと風で揺れているだけ。
「えっ!違うの?!じゃ、じゃあ、雷!サンダー!」
「駄目か、じゃあ今度は……氷!ブリザード!」
草原を強い風が撫でて、さわさわと耳ごごちのいい音が通り抜けていく。
「なんで!これでも駄目なの?!ええっと、他になんかあるっけ、う〜ん……あっ風!ウィンド!」
「まだ駄目……?早く!何か出てきてよ!ライトニング!」
「お願い、ほんとにお願いだから!ダークネス!」
「フレイム!」
「バーン!」
「ボンバー!」
「火炎!」
「ズドーン!」
「ドカーン!」
最後だいぶやけくそだけど。
ネタ切れになるまで唱えて唱えて、思いつく限り唱えて……でも、それでも。
「そんな!嘘でしょ……!何も出ないじゃん、この杖……ど、ど、どうしよう……!」
そうこうしている間に、とうとう私目がけて振り下ろされる棍棒。
もはや打つ手がない。万事休す。
なすすべなく、やられるしかない。
「いやぁぁぁ!!」
思わず目をギュッと瞑り、頭を抱えて小さくその場にしゃがみ込む。
(だ、誰か……!誰か助けて!)
鼓動は狂ったように脈打ち、全身はさあっと冷えて鳥肌が立っていく。
全身に感じる、はっきりとした死の予感。
「ひっ……!」
(こ、こ、殺される……!)
もう駄目だと思い一層身を強張らせた、その瞬間。
金属が何かにぶつかるような甲高い音が頭上で響き、グオォウ!という低い悲鳴が上がる。
少し間を置いて地面がズシンと一回大きく揺れ、静かになった。
ブワッと風圧を感じられるほど近く……私の体すれすれに、何か重い物が倒れたようだ。
「君!大丈夫かい?」
身を案じる優しい音色に目を開けると、目の前にすっと肌色が差し出される。
焦点が合わず二、三度瞬き。
ワンテンポ遅れてようやくピントが合った視界に、黒いグローブを嵌めた五本の指が。
(これは……手?……って事は、私助かったの?)
おずおずと見上げると、穏やかな表情の青年がこちらを見ていた。
「よかった、怪我は無さそうだね」
さっきのオークは私のすぐ脇にぐったりと倒れていた。
パックリと裂けた傷口から不気味な緑の液体をだらだらと流して。
目はうっすら開いているけど、もうその体はピクリとも動かない。
「この辺りの魔物は全部僕が倒した……だから安心して。もう何も出てこない、安全だよ」
「もう出てこない?ほんと……?」
「ああ、本当だよ。さて……どうかな、そろそろ立てそうかい?」
私は差し出された手を取りゆっくりと立ち上がる。
体はまだ固く鼓動もバクバクしてて、足もふらふら。
ただその場に立つ事すら大仕事だった。
改めて見ると、ここは辺り一面草原のようだ。
映画とかのワンシーンみたいな、まるでCGで作ったかのような綺麗な緑が周囲に広がっていた。
空は青く澄み渡り、これまた絵画のような美しさ。
時々トンビのような大きな鳥の影と共に、甲高い鳴き声が聞こえてくる。
少し離れたところに川が流れていて、その水面の輝きはまるで宝石のようで。
草原を囲うように聳え立つ周りの山々は深い緑で覆われ、どっしりと力強く構えている。
どこを見ても、どちらを向いても、現実離れした圧倒的な景色が広がっていた。
「……ところで、君の名前は?」
目の前の彼は、やたらキョロキョロと落ち着きない私に不思議そうな顔をしていた。
「えっと、私……『矢川 里奈』です」
「矢川、里奈……」
男の顔が一瞬曇ったような気がした。
「あの、私、なにかまずい事でも……」
「……なんでもない。別になんでもないよ。『矢川さん』か……」
(あれ?もしかしてこの人、私の事知ってる?)
「ああ、いや……不安がらせてすまない。本当になんでもないんだ。ただ、名前が決まらないだけで……」
「……?名前が『決まらない』?」
「おっと間違えた、『思い出せない』だった。いやぁ、僕は本当によく言い間違えするんだよね」
誤魔化すように笑う彼。なんだか隠し事がありそう。
「……?何か、私の事をご存知なんですか?」
「ああ、実は君の事をどこかで聞いた事があってね。有名な肩書きというか、なにか呼び名があった気がするんだ……ちょっと待ってね、すぐに思い出すから」
何だかいきなり様子がおかしいけど、でも何か公に出せないような事情があるのかもしれない。
見ず知らずの私を咄嗟に助けてくれたくらいだから、何か裏があったとしても少なくとも極悪人とかじゃないはず。
陰謀?策略?
その可能性も否定できないけど、今はそれよりも少しでも長く生き延びるのが先。
なんと言ってもこの世界で頼れるのは、今この人しかいないんだから。
変に嫌われちゃったら、この知らない世界で完全に一人。
またあのオークが襲ってくるかもしれないし、もっと強くてやばいのがまだ他にいるかもしれない。
ここは、とりあえず彼に嫌われない事がまず最優先。
(こんなところで死にたくない。どうにかして生き延びないと……)
異世界で、全く先が見えない状況……いつ帰れるのかなんて分かったもんじゃない。
そもそも帰れるのかすら分からない。
男の話に適当に受け答えし愛想笑いしながらも、私の心は不安で暗く染まっていった。