氷の丘
……でも、ボクが連れ出したその日は、まだ寒い冬だったから、当然シロツメ草なんて咲いていない。
あの時紗奈が《シロツメ草が見たい……》と、小さく呟いたのをボクは知っている。
春にはあたたかな優しい丘も、冬には冷たい氷の丘となる。
丘の向こうには、池があった。
池は、山の水が流れ込んで出来る、とても綺麗な池だった。けれど、さすがに冬には、凍りつく。
夏場でさえも冷たいその水は、冬にもなれば刃のような鋭さを持った。
だからボクたちは、両親から言われていた。
『あたたかい季節ならいいけれど、冬にあの丘へ行ってはいけないよ』
冬には丘も、凍りつく。
丘から足を踏み外したら、冷たい池に真っ逆さまなのだと、注意を受けた。
だけどその日、紗奈は、どうしてもそこへ行きたいと言って聞かなかった。
「ダメだって! 今は冬だろ!?」
当然ボクは怒った。
約束を守らないのは、いけないことだ。
「ねぇ、お兄ちゃん。紗奈行きたいの。今までずっと寝ていたもの。春に花が咲いた時も、寝ていて行けなかったんだよ?」
可愛らしく首を傾げる。
紗奈はいつもこうだ……!
可愛らしくおねだりすれば、ボクが言うこと聞くんだと思っているに違いない。
「……っ」
ボクは紗奈の、このおねだりに弱い。
首を傾げると、小さな紗奈のおかっぱの髪が揺れる。
ほんのり癖があって、柔らかい紗奈の髪の毛は、首を傾げるとふわりと舞った。
体が弱くて、ほとんど外へ出られないその顔色は、いつも青白いのに、不思議と唇は真っ赤で、ひどく愛らしい。
病気で寝込んでばかりいなかったのなら、きっと沢山の友だちが出来たに違いないって思う。
……だけど紗奈には、友だちがいない。
学校にもほとんど行けなかったし、近所に子どもはいなかった。
家に誰かが来ることも当然なくて、遊び相手になれるような子どもは、兄のボクくらい。
そんな事を思ってはダメだって思ってはいたけれど、でもボクは、それがほんの少し、嬉しかった。
紗奈を独り占めしてるみたいだったから……。
でも、そんな紗奈でも、許されることと許されないことがある。
《丘に行きたい》?
あの丘だけはダメだ! 絶対にダメだ!
ボクは怒った。
「なんでそんな我儘を言うの! 父さんも母さんも、冬に行ってはダメだって、あんなに言っていたじゃないか……!」
「……だって……だって……」
ボクは今まで怒ったことがないくらい、紗奈を叱った。
そんなボクを見て、紗奈も怖かったんだと思う。
紗奈は哀れな程にブルブルとふるえて、黒水晶のような大きなその瞳に、涙をためた。