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淡々三国志  作者: ンバ
魏書第七、呂布伝
96/603

五、赤兎に跨り黒山を討つ

三国志5.

布自以殺卓為術報讎,欲以德之。術惡其反覆,拒而不受。北詣袁紹,紹與布擊張燕於常山。燕精兵萬餘,騎數千。布有良馬曰赤兎。常與其親近成廉、魏越等陷鋒突陣,遂破燕軍。而求益兵衆,將士鈔掠,紹患忌之。布覺其意,從紹求去。紹恐還為己害,遣壯士夜掩殺布,不獲。事露,布走河內,與張楊合。紹令衆追之,皆畏布,莫敢逼近者。


(訳)

呂布は自ら董卓を殺して

袁術えんじゅつのために復讐したことで

(袁術から)感謝されると思っていた。


袁術は呂布の反覆を憎み、

拒んで受け入れなかった。


呂布は北の袁紹えんしょうのもとへ向かい

袁紹は呂布とともに

常山において張燕を撃った。


張燕には一万余りの精兵と

数千の騎兵があった。


呂布には赤兎せきとという良馬があり

いつも側近の成廉せいれん魏越ぎえつとともに

先鋒として陣営に突撃して陥とし、

かくて張燕の軍勢を破った。


しかし、兵の増員を求めたり

将士が掠奪を行ったりしていたため

袁紹は呂布を疎ましく思うようになった。


呂布はその意に気付いて

袁紹のもとを去ろうとした。


袁紹は、呂布が引き返して来て

自らを害するのではないかと恐れ

壮士を遣わして、夜に

呂布を暗殺しようとしたが

捕まえられなかった。


ことが露見したため

呂布は河内へ奔り、張楊と合流した。


袁紹は軍に命じて呂布を追撃させたが

みな呂布を恐れて、敢えて

近づこうとする者はいなかった。




(註釈)

董卓は袁家の人たちを殺したので

呂布は董卓を討ったことで

「袁術や袁紹に恩を売った」と

考えていましたが、実際は

そうでもなかった雰囲気ですね。


袁術からは「恩人」どころか

「簡単に主の首を挿げ替える奴」と

認識されてそうなニュアンスです。



赤兎馬せきとばはここで初登場します。


三国志演義では、董卓が呂布に贈り

呂布の死後は関羽の愛馬になってますが

董卓から関羽の死までで

30年くらい経ってるのに

元気すぎやろ!!……と思うわけで

どこかで2代目赤兎馬に

代替わりしているはずです。


張燕は黒山賊という

盗賊集団の頭目で、

後漢王朝の討伐隊を破った事もある

なかなか優秀な指揮官です。

この時期は公孫瓚と手を結んでおり

趙雲のホームの常山じょうざんにいたようです。



赤兎馬に跨り、成廉せいれん魏越ぎえつとともに

張燕の軍勢を破ってるあたり

呂布ってやっぱり強いんですね。


二人とも呂布の主力武将っぽい

雰囲気を出してますが、

成廉はともかく、魏越は

この常山の戦いにしか登場しません。



続いて後漢書です。


三国志より描写が増えてますが、

後漢書の呂布のほうがなんとなく

セコイイメージがあります。



後漢書5.

袁術待之甚厚。布自恃殺卓,有德袁氏,遂恣兵鈔掠。術患之。布不安,復去從張楊於河內。時李傕等購募求布急,楊下諸將皆欲圖之。布懼,謂楊曰:「與卿州里,今見殺,其功未必多。不如生賣布,可大得傕等爵寵。」楊以為然。有頃,布得走投袁紹,紹與布擊張燕於常山。燕精兵萬餘,騎數千匹。布常御良馬,號曰赤菟,能馳城飛塹,與其健將成廉、魏越等數十騎馳突燕陣,一日或至三四,皆斬首而出。連戰十餘日,遂破燕軍。布既恃其功,更請兵於紹,紹不許,而將士多暴橫,紹患之。布不自安,因求還洛陽。紹聽之,承制使領司隸校尉,遣壯士送布而陰使殺之。布疑其圖己,乃使人鼓箏於帳中,潛自遁出。夜中兵起,而布已亡。紹聞,懼為患,募遣追之,皆莫敢逼,遂歸張楊。道經陳留,太守張邈遣使迎之,相待甚厚,臨別把臂言誓。



(訳)

袁術は呂布を甚だ厚く待遇した。

呂布は董卓を殺した事を自負して

袁氏の歓心を得たと思い、かくして

兵は欲しいままに掠奪を行わせたため、

袁術はこれを疎ましく思った。


呂布は不安を覚え、また袁術の下を去りて

河内かだい張楊ちょうように従った。


時に李傕らは賞金を懸けて、

呂布を激しく追求していた。

張楊の諸将は皆(呂布を殺そうと)謀った。

呂布は恐懼し、張楊に述べた。


「君とは州里が同じで、

今(同郷の)私を見殺しにしても

その功績が多大であるとは限らぬ。


生きながら私を売るに越したことはない。

李傕らから大いに爵位と寵遇を受けるべきだ」


張楊は呂布の言を尤もだと思った。


しばらくして呂布は逃走し

袁紹の下に身を投じた。

袁紹は呂布とともに

常山において張燕を撃った。


張燕には一万余りの精兵と

数千匹の騎兵があった。


呂布は常に良馬に跨っており、

号して「赤兎せきと」と云った。

能く城壁に馳せつけて、塹壕を飛び越え

その勇将の成廉、魏越ら数十騎とともに

張燕の陣営に突撃をかけて

ある時は一日に三〜四度に至って

敵の首をすべて斬って脱出した。


連戦する事十余日に及び、

とうとう張燕軍を破った。


呂布はまたも功績を恃んで

更に袁紹に増兵を要請したが

袁紹は許さなかった。


しかして呂布の将士の多くは横暴に振る舞い

袁紹はこれをわずらわしく思った。


呂布の心は落ち着かず、

(袁紹に)洛陽へ帰ることを求めた。


袁紹はこれを聞き入れて、

聖旨を承って呂布を司隷校尉とし、

壮士を遣わして見送ったが

密かに使者に呂布を暗殺させようとした。


呂布は袁紹が自身を害そうと

しているのではないかと疑って、

そこで人を使って、帷幕の中で

太鼓と琴を鳴らさせ、

その音に紛れて遁走した。

夜中に兵らが起きると、

呂布は既に逃げ去った後であった。


袁紹はこれを聞いて恐怖に怯え、

呂布を追撃する兵を募ったが

皆敢えて追おうとしなかった。


結局呂布は張楊の下へ舞い戻り

道すがら、陳留太守の張邈ちょうばく

使者を遣って呂布を迎えた。

互いに待遇すること甚だ厚く、

別れる際に腕を取って誓いを立てた。


(註釈)

呂布は図々しいし、

彼の配下はガラが悪いですねぇ。


袁紹や袁術に身を寄せても

すぐ略奪だの乱暴狼藉を働いて

不興を買って出て行くという悪循環です。




三国志では

袁術→袁紹→張楊の順に鞍替えしてますが


後漢書では、袁紹に走る前に

一度張楊を頼ってるんですね。


また、後漢書の方が

張燕との戦いがより詳細に描かれてます。


「赤兎馬」も、後漢書の方が

活躍度合いがわかりやすく

優秀な雰囲気がありますね。



張楊へのセリフは

俺を殺すな!→俺を売った方がいいぞ!


と前後で正反対のことを言ってるんですが

途中で「生」が入ってるので


「おい張楊、同郷の俺を殺すのか??

殺すんじゃなくて〝生きたまま〟

差し出した方がいいぞ!

その方が出世できるんじゃないか!」


という意味に捉えられます。

張楊も張楊で、呂布のセリフに

納得してるフシがありますから、

彼はイメージよりもけっこう

口が回る男なんですね。


袁紹のところから逃げる時にも

楽器を鳴らさせて、その隙に逃げ出すなど

「三国志」の呂布よりも

「後漢書」の呂布のほうが

奸智に長けている感じがします。



ここは、後述する裴註の「英雄記」に

ほとんど同じ場面が出てくるのですが

そちらの記述の方が親切です。


後漢書は三国志より前の時代を

書いているのですが、史書が成立したのは

三国志よりも後になります。


呂布の伝記は、三国志の注釈を拾って

補填している記述が多いです。


陳寿の抱いてるイメージ(三国志)と

王粲の抱いてるイメージ(英雄記)を

掛け合わせて、ブラッシュアップしたのが

范曄の記述(後漢書)って感じでしょうか。


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