四、袁術のもとへ落ち延びる
三国志4.
布自殺卓後,畏惡涼州人,涼州人皆怨。由是李傕等遂相結還攻長安城。布不能拒,傕等遂入長安。卓死後六旬,布亦敗。將數百騎出武關,欲詣袁術。
(訳)
呂布は自ら董卓を殺した後
(董卓の出身の)涼州人を恐れ憎み
彼等は皆(呂布を)怨んだ。
このことが原因で
李傕ら(董卓軍の残党)は遂に結託して
還って長安の城を攻撃して来た。
呂布は防ぐことができず、
李傕らはかくして長安へ入城した。
董卓が死んでから六十日で
呂布もまた敗れてしまい、
数百騎を率いて武関を出て
袁術のもとへ向かおうとした。
後漢書4.
允既不赦涼州人,由是卓將李傕等遂相結,還攻長安。布與傕戰,敗,乃將數百騎,以卓頭繫馬鞍,走出武關,奔南陽。
(訳)
王允が涼州人を処罰し終えると、
そのことが原因で、董卓の将の李傕らが
結託して還って長安を攻めて来た。
呂布は李傕と戦ったが、敗北した。
こうして数百騎を率いて
董卓の首を馬の鞍に繋げて
武関より駆け出ていき
南陽(袁術の根拠地)へ奔った。
(註釈)
董卓を滅ぼしたものの、
長安を攻めて来た董卓軍の残党に敗れ
呂布は流浪の身となります。
「三国志」では呂布が
「後漢書」では王允が
涼州派閥を刺激しすぎたことで
李傕らの逆襲を招いたことになってます。
王允はもと董卓軍の徐栄や胡軫を差し向けて
李傕を迎え撃とうとしますが
徐栄は殺され、胡軫は寝返り
呂布も敗れてしまったため
結局李傕に捕まって八つ裂きにされました。
王允関連の記述を見るに、
彼は董卓を討ったことで
かなり増長していたみたいです。
驕れる者久しからず、って真理じゃのう。
李傕は三国志演義の影響で
あんま強くないイメージがありますが、
馬騰・韓遂・朱儁・徐栄・呂布などの
名だたる面子を相手に勝利を収めてるので
実際はかなり強いです。ビックリ。
また、
「後漢書」の呂布は長安を脱出する際
董卓の首を持ち出しています。
「英雄記」で、袁術が呂布への書状で
「董卓の首を送ってこられ〜」
って言っているので、
おそらくこの記述と整合性取るために
范曄が董卓の首云々の描写を
追加したのでしょう。
後述しますが、
後漢書は「英雄記」によって
記述を補ってる部分がかなり多いです。
「三国志」では董卓を討ってから
李傕に敗れるまで六十日とあります。
この日数に関しては
このあと裴松之が突っ込んでます。
三国志演義では
このあたりで馬超が出てきますが
馬騰(と馬超)はこの頃西方で
韓遂と仲違いして争っています。
192年だと、馬超は
数えで17歳になります。若い!




