六、漢中奪取の計
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二十二年,正說先主曰:「曹操一舉而降張魯,定漢中,不因此勢以圖巴、蜀,而留夏侯淵、張郃屯守,身遽北還,此非其智不逮而力不足也,必將內有憂偪故耳。今策淵、郃才略,不勝國之將帥,舉衆往討,則必可克之,克之日,廣農積穀,觀釁伺隙,上可以傾覆寇敵,尊獎王室,中可以蠶食雍、涼,廣拓境土,下可以固守要害,為持乆之計。此蓋天以與我,時不可失也。」先主善其策,乃率諸將進兵漢中,正亦從行。
(訳)
建安二十二年(217年)
法正は先主に説いて言った。
「曹操は一挙に張魯を降して
漢中を平定しましたが
その勢いに因んで巴蜀を併呑しようとせず
夏侯淵と張郃を留めて守らせ
自身は急遽北方へ還りましたのは、
彼の智力が及ばなかったり
力不足であったりという事ではなく、
必ずや内部に、差し迫った
憂患があるに相違ありませぬ。
今、夏侯淵と張郃の才略を推し量りますに
国家の将帥を担いきれません。
軍勢を挙げて討伐に向かいますれば
必ずや打ち勝つことができましょう。
勝利したのちに、
農事を拡大して穀物を積み上げ
不和を観察し間隙を伺って
〝上〟の成果をあげれば、
仇敵の勢いを覆して
王室を尊崇する事が出来、
〝中〟の成果の場合でも
雍州・涼州を喰らいて
領土を拡大する事が叶い、
〝下〟の成果でも
要害を固く守って、
持久策を計ることができます。
これは恐らく、
天が我に与え給うたもので
時宜を失ってはなりません」
先主はこの策を容れて、
諸将を率いて漢中へ兵を進め
法正もまた随行した。
(註釈)
雍涼の馬騰馬超、
荊州の劉表、漢中の張魯、
益州の劉璋らが討伐、併合され
覇権争いはいよいよ
劉備・曹操・孫権の
三勢力に絞られてきます。
劉備が蜀落とした後、孫権は
「益州取ったんなら荊州返せや」と
持ちかけてきますが、劉備が
「涼州落としたら返すわ」と
お茶を濁す返事を寄越した上
関羽に使者を追い返されたため
怒った孫権は、呂蒙に命じて
荊州を攻めるという実力行使に出ます。
劉備は五万の軍勢を率いて
迎撃に出ようとしますが、
「曹操が漢中に出征してきた」と聞き
慌てて孫権と講和を結びます。
結局この時は
江夏・長沙・桂陽を呉側が
南郡・零陵・武陵を蜀側が
それぞれ領有するということで
話がまとまりました。
曹操が漢中を降した際、司馬懿や劉曄は
「劉備が勢力固める前に
巴蜀も取っちゃおう。
この機会を逃す手はない」
と進言しているのですが
曹操は光武帝の名言
「隴を得て蜀を望む」を引用し
もう漢中取ったんだから
蜀までは望まないよ、と述べて
結局都へ帰ってしまいました。
曹操が漢中を攻めたのが215年3月
落としたのが7月、
巴中に逃げた張魯が
降ってきたのが11月でした。
劉備は黄権に命じて
張魯を迎えに行かせましたが
間に合わなかった……と綴られています。
反乱なり後継者問題なりの
内憂が差し迫ってたんでしょうが
ここで曹操が蜀平定に動いていれば
果たして劉備は勝てたものかどうか。
かくして、張飛伝にて紹介された
張飛VS張郃など、漢中や巴郡を巡る
一連の攻防戦に繋がっていきます。
ここでの法正は
首尾を上・中・下に分けて
劉備に説いていますが、
龐統も入蜀の際に
これと似た語り口で策を献じています。
他者の掣肘を嫌う劉備には
あれ禁止!これ禁止!
あれやれ!これやれ!!って言うより
龐統や法正のように、
劉備本人に選択の機会であったり
思考の余地を与える献策の仕方が
ベストなんだ、と個人的には思います。




