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淡々三国志  作者: ンバ
蜀書第七、法正伝
73/603

註一、おじいちゃんは玄徳先生

註1.

三輔決錄注曰:真字高卿,少明五經,兼通讖緯,學無常師,名有高才。常幅巾見扶風守,守曰:「哀公雖不肖,猶臣仲尼,柳下惠不去父母之邦,欲相屈為功曹何如?」真曰:「以明府見待有禮,故四時朝覲,若欲吏使之,真將在北山之北南山之南矣。」扶風守遂不敢以為吏。初,真年未弱冠,父在南郡,步往候父,已欲去,父留之待正旦,使觀朝吏會。會者數百人,真於䆫中闚其與父語。畢,問真「孰賢」?真曰:「曹掾胡廣有公卿之量。」其後廣果歷九卿三公之位,世以服真之知人。前後徵辟,皆不就,友人郭正等美之,號曰玄德先生。年八十九,中平五年卒。正父衍,字季謀,司徒掾、廷尉左監。


(訳)

三輔決錄注にいう、

法真(ほうしん)はあざなを高卿(こうけい)といい

若くして五経に明るく

同時に讖緯しんいにも通暁していた。


学業に於いて決まった師を持たなかったが

高才として評判があった。


かつて幅巾ふくきんを被って

扶風の太守にまみえた際

太守が述べた。


「(魯の)哀公は不肖と雖も

なお仲尼(孔子)を臣下とし

柳下恵は父母の国を去らなかった。

あなたにも、意を曲げてでも功曹に

なっていただきたいのだが、如何か」


法真が言った。


「明府《あなた様》の待遇に礼があるので

故に季節が変わるたび朝見しておりますが

もし吏人として使おうと仰るなら

私は北山の北、南山の南に

暮らそうと思います」


扶風の太守はかくて

彼を官吏として用いようとしなかった。


かつて、法真の年齢が弱冠(20歳)

に満たなかったとき、父は南郡にあり

歩いて父のもとまで挨拶に往き、

去ろうとした折、

父が留めて正月まで待たせ

朝賀に出席する官吏を観察させた。

集まった者は数百人おり、

法真は窓から、彼らが

父と語らうのを窺っていた。


(会見を)えて父が法真に問うた。


いずれが賢士か」


法真は言った。


「曹掾の胡広ここうには

公卿の器量がございました」


その後、果たして胡広は

九卿三公の位を歴任し

世間は法真の人を見る目に感服した。


前後して出仕の要請があったが

全て就任しなかったため

友人の郭正かくせいらがこれを愛でて

「玄徳先生」と称した。


八十九歳で、中平五年(188年)に卒した。

法正の父の法衍ほうえん

あざなを季謀きぼうといい、

司徒掾、廷尉左監となった。


(註釈)


法正のおじいちゃんは

玄徳げんとく先生」と呼ばれてたんですね。


「玄徳」は老子の用語で

目に見えない徳の事を指します。


果たして物資や知識の豊かさが

人間に真の幸せをもたらすのだろうか、

玄妙な「道」を見つめ直し

根源的な無為自然に還れ。


儒学思想の目指している、

人物の理想像を追い求めて

世のために生かすこと、

要は立派な社会人たれ……というのが

ゴールではない、という考えなんです。


(表現力に乏しくて伝えきれませんが

本来もっと老荘思想は深遠なモノです



奇しくも劉備のあざなと

祖父の道号が同じで、

法正は運命を感じたかもしれません。


宮城谷昌光先生の三国志では

「玄徳」のあざなを持つ劉備は

老子の信奉者なのかな?と思える設定で

物事に対する執着心が薄く

だからこそ兄弟や軍勢、国すらも

見捨てて逃げることに躊躇いがない。


〝積み上げる〟ことに興味がなくて

儒教思想に凝り固まった気風から

最も縁遠いところにいる男。


……と、従来の劉備像とは一線を画していて

とっても斬新でした。


劉備って主人公の割にナゾすぎる人物なので

画期的な劉備像を打ち出すだけでも

それは「ネオ三国志」になり得るんです。



讖緯しんいは説明するのが難しいんですが

儒教の経典にこじつけた

占いみたいなものです。


1986年に発売された

ドラクエ1の「復活の呪文」で

浅田真央ちゃんが氷を滑るとか

ベルリンの壁が崩壊するとか

未来のことが予言されてるっていう

あれと大体一緒です(絶対違う


新の王莽おうもうがこういった占いを用いて

自身の高貴性、神秘性をアピールしたので

後漢初期くらいに流行りました。


後漢のスーパーヒーロー光武帝も

即位するとき讖緯を利用してたりします。



柳下恵は

「やなぎしためぐみ」?

って読みそうになりますけど

「リュウカケイ」です。


柳下恵りゅうかけいは魯の人で、

三回降格させられても

出奔せず留まり続けました。


「魯の哀公」は孔子の晩年の君主で、

孔子の言う事をあんまり

聞かなかった人っていうイメージです。


孔子の春秋は哀公の代で

筆を折る流れになってます。

(最初と最後しか読んでないやつ

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