一、益州の内応者
素行は悪いが軍略は蜀一。
劉備のbest partner
法正伝です。
1.
法正字孝直,右扶風郿人也。祖父真,有清節高名。建安初,天下饑荒,正與同郡孟達俱入蜀依劉璋,乆之為新都令,後召署軍議校尉。旣不任用,又為其州邑俱僑客者所謗無行,志意不得。益州別駕張松與正相善,忖璋不足與有為,常竊歎息。松於荊州見曹公還,勸璋絕曹公而自結先主。璋曰:「誰可使者?」松乃舉正,正辭讓,不得已而往。正旣還,為松稱說先主有雄略,密謀協規,願共戴奉,而未有緣。後因璋聞曹公欲遣將征張魯之有懼心也,松遂說璋宜迎先主,使之討魯,復令正銜命。正旣宣旨,陰獻策於先主曰:「以明將軍之英才,乘劉牧之懦弱;張松,州之股肱,以響應於內;然後資益州之殷富,馮天府之險阻,以此成業,猶反掌也。」先主然之,泝江而西,與璋會涪。北至葭萌,南還取璋。
(訳)
法正はあざなを孝直といい
扶風の郿の人である。
祖父の法真は
清らかな節操を有し、高明であった。
建安(196〜220)の初め
天下は飢饉により荒廃し、
法正は同郡の孟達とともに
蜀へと入国し、劉璋を頼った。
久しくして新都の令となり
後に召されて軍議校尉に就いた。
(重く)任いられなかった上
その州の村で、ともに客居していた者に
品行が悪いと誹謗され、
志を得られなかった。
益州別駕の張松は
法正とお互いに仲がよく、
劉璋はともに大事を為すには
不足であると推し量って
いつも内心では嘆息していた。
張松は荊州において
曹公と会見してから帰還すると、
劉璋に、曹公とは絶交して
自ら先主と結ぶように勧めた。
劉璋が
「誰を使者に立てるべきか」と言うと
張松はそこで法正を推挙した。
法正は辞去して譲ろうとしたものの
止むを得ずに(劉備のもとへ)往った。
法正は帰ってくると、張松に
先主には雄大な志があると称え説き
密かに謀って方針を合わせると
ともに(劉備を)主君として
奉戴したいと願ったが
未だに機会を得られなかった。
後になって、曹公が将を派遣して
張魯を征伐しようとしていると聞いて
劉璋が心に恐怖を抱いていることに因み、
張松はかくして劉璋に
先主を迎えて張魯を討たせるべきだと説き、
再び法正に(劉備への使者の)命を承らせた。
法正はその旨を告げたあと
密かに先主に献策して述べた。
「明将軍の英才を以て
劉牧(劉璋)の懦弱に乗じるのです。
張松は益州の股肱であり
内側から響応致しましょう。
しかる後に益州の豊かな富を基盤として
天から与えられた険阻に依らば
これを以て鴻業を成就する事は
掌を返すように容易いことです」
先主はこの言に納得して
長江を西へと遡り、劉璋と涪で会見した。
北の葭萌に至り、
南へ引き返して劉璋を取った。
(註釈)
「無行」はそのままの意味ですが
品行が悪い、と訳してみました。
法正なのに品行方正ではない、
というダジャレが言いたくて(銃声
劉備が蜀を取った時、
劉璋側に実は内応者がいたのです。
それが張松と法正でした。
劉璋は漢中の張魯とは仇敵の間柄で、
曹操が荊州を定めたおりに
漢中をも併呑したと聞き及んで
使者を遣って誼を結ぼうとします。
劉璋伝の引く『漢晋春秋』によると
この時の曹操は〝慢心〟しており
使者の張松を冷たくあしらったために
怒った張松が益州に戻って
『曹操とは絶交しろ』と劉璋に
伝えたとかなんとか。
曹操が天下統一に殆ど王手をかけながら
結局事業を完成させられなかった遠因が
このあたりの事情にある気がします。
また、張松と法正に共通しているのは
荊州に赴いて、劉備とコンタクトを
取っているという点です。
この二人を惹きつける雄略と人徳を
劉備は確かに備えていたのでしょう。
劉璋では乱世を勝ち残れないと
判断した二人は、真の盟主として
劉備を蜀へと招き入れたのです。
出世できなかったとはいえ
世話になった劉璋をあっさり裏切るのは
感心できませんが、そういった
良心に悖るような行為でも
「必要悪」と断じ、果断さを以て行えるのが
謀略家という人種でもあるのです。
人の話を基本的に聞かない劉備ですが
なぜかこの法正の言うことだけは聞きます。




