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淡々三国志  作者: ンバ
蜀書第十、魏延伝
70/603

註二、魏視点で振り返る魏延の死

註2.

魏略曰:諸葛亮病,謂延等云:「我之死後,但謹自守,慎勿復來也。」令延攝行己事,密持喪去。延遂匿之,行至襃口,乃發喪。亮長史楊儀宿與延不和,見延攝行軍事,懼為所害,乃張言延欲舉衆北附,遂率其衆攻延。延本無此心,不戰軍走,追而殺之。臣松之以為此蓋敵國傳聞之言,不得與本傳爭審。



(訳)

魏略にいう。

諸葛亮は病に罹ると、魏延らに述べた。


「私が死んだ後は、ただ自国の守りに徹し

慎んでまた来ることがあってはならぬぞ」


(諸葛亮は)魏延に自らの業務を代行させ

密かに(死後の諸葛亮の)遺体を

運んで去るように命じた。


魏延はかくして諸葛亮の死を秘匿し

行軍して褒口ほうこうへ至ってから喪を発した。


諸葛亮の長史の楊儀は

兼ねてより魏延と不仲であり、

魏延が軍事を代行したのを見て

自身を害するのではないかと恐れ

そこで、魏延が軍勢をこぞって

北方へこうとしていると喧伝し

かくてその軍勢を率いて魏延を攻めた。


魏延にもとよりこのような考えは無く、

戦わずして軍は敗走し、

(楊儀は)追撃して魏延を殺した。


わたくし松之が思うに、

これは恐らく敵国の伝聞による文言であり

本伝とともに真偽を争うことはできない。


(註釈)

楊儀が先か、魏延が先か?

確かめるすべはありませんが

やはり魏延と楊儀が不和である事は

魏に於いても周知の事実のようです。



234年に諸葛亮が陣没してより

253年に費禕が降将に刺殺されるまで

実に20年近くの間、蜀は

自発的な軍事行動を起こしていないため


魏からすると、諸葛亮が

「北伐はもうやめとき」って

言い遺していたのではないか、

という事になってるんでしょうか。

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