一、漢中太守に大抜擢
諸葛亮の死後も打倒曹魏に拘ったものの
政敵に敗れて惨死した、
悲哀の猛将、魏延伝です。
1.
魏延字文長、義陽人也。以部曲隨先主入蜀、數有戰功、遷牙門將軍。先主為漢中王、遷治成都、當得重將以鎮漢川、衆論以為必在張飛、飛亦以心自許。先主乃拔延為督漢中鎮遠將軍、領漢中太守、一軍盡驚。先主大會羣臣、問延曰:「今委卿以重任、卿居之欲云何?」延對曰:「若曹操舉天下而來、請為大王拒之;偏將十萬之衆至、請為大王呑之。」先主稱善、衆咸壯其言。先主踐尊號、進拜鎮北將軍。
(訳)
魏延はあざなを文長といい、
義陽郡の人である。
部曲(私兵)を率いて先主の入蜀に随行し
たびたび戦功を立て牙門将軍となった。
先主が漢中王となると、政庁を成都に移し
漢川を鎮撫するに当たって
重要な将軍を用いる必要があった。
衆論は必ず張飛が任用されると考え
張飛自身も内心そうなると自認していた。
(ところが)先主は魏延を抜擢して
督漢中・鎮遠将軍・領漢中太守としたので
一軍はみな驚いた。
先主は群臣らを大勢集めて、魏延に問うた。
「今君に大任を委ねるのであるが
君は任に当たって
どのように考えているのか」
魏延は
「もしも曹操が天下の兵を挙って
押し寄せて来れば、大王のために
これを防いでご覧に入れます。
偏将が十万の兵を率いて
押し寄せて来れば、大王のために
これを呑み込んでご覧に入れます」
と答えた。
先主は「善し」と魏延を称え、
人々は皆その言葉を立派だと思った。
先主が即位すると、
魏延は鎮北将軍に昇進した。
(注釈)
魏延は荊州義陽郡の出身で
劉備の入蜀の時が初陣のようです。
(義陽郡は魏の曹丕が制定した州郡で、
曹丕は南陽を分けて義陽にしました)
魏延が劉備に付いた詳しい経緯は不明。
創作家の腕の見せ所です。
三国志演義では、
劉備が襄陽で追い返される場面で
魏延を初登場させ、のちの長沙攻略時に
本格的に陣営に加わる流れにしてます。
入蜀の戦では黄忠が三軍の筆頭として活躍。
魏延も手柄を立てて牙門将軍になりました。
他に蜀将のなかで
牙門将軍を経験してる人物というと
趙雲、王平、張嶷らが挙げられます。
「牙門将軍」は、前途有望な将の
キャリアアップの足掛かりという感じ?
219年に劉備が漢中王となった際、
魏延は宿将の張飛を差し置いて
激戦区、漢中の太守に大抜擢。
劉備は相当に魏延を買っていますね。
張飛は劉備が袁術と戦った際に
本拠地の守備を任されていたものの
相の曹豹とトラブルを起こして
呂布に城を取られたことがあります。
また、張飛は兵卒を鞭打ったり
死刑を頻繁に行って
よく劉備に窘められていました。
張飛が漢中太守に選ばれなかったのは
この辺りが理由だと思われます。
その点で魏延は、兵卒の育成が
上手な感じがするので。
「三国志集解」だと
「張飛は人望がないから選ばれなかった」
と、バッサリ。
また、この人事に対して
張飛が不満を漏らしてる様子がありません。
張飛は劉備の采配に文句を言わないのです。
たぶん、関羽だったら抗議してるはず。




