六・註二、朱霊
6.
初,清河朱靈爲袁紹將。太祖之征陶謙,紹使靈督三營助太祖,戰有功。紹所遣諸將各罷歸,靈曰:「靈觀人多矣,無若曹公者,此乃眞明主也。今已遇,復何之?」遂留不去。所將士卒慕之,皆隨靈留。靈後遂爲好將,名亞晃等,至後將軍,封高唐(亭)侯。
(訳)
初め、清河の朱霊は袁紹の将であった。
太祖が陶謙を征伐すると
袁紹は朱霊に三営を監督させて太祖を援助し
戦って戦功が有った。
袁紹の遣わした諸将が
各々罷歸した際、朱霊は言った。
「霊は多くの人を観てきたが
曹公のような方はいなかった。
彼こそは乃ち真の明主である。
今、已に遇しながら
復た(戻ってしまって)どうする?」
遂に留まり、立ち去らなかった。
率いる士卒は彼を慕い
皆朱霊に隨って残留した。
朱霊はその後、かくて好き将となり
名声は徐晃等に亞ぎ
後将軍まで至り、高唐(亭)侯に封じられた。
註2.
九州春秋曰:「初,清河季雍以鄃叛袁紹而降公孫瓚,瓚遣兵衞之。紹遣靈攻之。靈家在城中,瓚將靈母弟置城上,誘呼靈。靈望城涕泣曰:『丈夫一出身與人,豈復顧家耶!』遂力戰拔之,生擒雍而靈家皆死。」魏書曰:「靈字文博。太祖旣平冀州,遣靈將新兵五千人騎千匹守許南。太祖戒之曰:『冀州新兵,數承寛緩,暫見齊整,意尙怏怏。卿名先有威嚴,善以道寛之,不然即有變。』靈至陽翟,中郎將程昂等果反,即斬昂,以狀聞。太祖手書曰:『兵中所以爲危險者,外對敵國,內有姦謀不測之變。昔鄧禹中分光武軍西行,而有宗歆、馮愔之難,後將二十四騎還洛陽,禹豈以是減損哉?來書懇惻,多引咎過,未必如所云也。』文帝即位,封靈鄃侯,增其戸邑。詔曰:『將軍佐命先帝,典兵歷年,威過方邵,功逾絳灌。圖籍所美,何以加焉?朕受天命,帝有海內,元功之將,社稷之臣,皆朕所與同福共慶,傳之無窮者也。今封隃侯。富貴不歸故鄕,如夜行衣繡。若平常所志,原勿難言。』靈謝曰:『高唐,宿所原。』於是更封高唐侯,薨,諡曰威侯。」
(訳)
九州春秋にいう、
初め、清河の季雍が鄃を以て袁紹に叛き
公孫瓚に降ると、公孫瓚は
兵を遣わしてこれを防衛した。
袁紹は朱霊にこれを攻めさせた。
朱霊の家は城中に在り
公孫瓚は朱霊の母と弟を城上に置いて
朱霊を誘引、召呼しようとした。
朱霊は城を望見すると、涕泣して言った。
「丈夫が一たび身を出し人に与りながら
どうして復た家を顧みようか!」
遂に力戦してこれを抜き
季雍を生け捕りにしたが、
朱霊の家族は皆死んでしまった。
魏書にいう、
朱霊は字を文博。
太祖は冀州を平定したあと
朱霊に新兵五千人、騎兵千匹を率いさせて
許南を守らせた。
太祖が彼を戒めて言うには、
「冀州の新兵はしばしば寛緩を承けており
暫くは整斉として見えるが
意はなお怏怏としている。
卿の名声は以前より威厳がある、
善く道義によってこれを
寛大に処置するのだ。
さもなくば即刻変事が起こるぞ」
朱霊が陽翟に至ると
中郎将の程昂等が果たして反き、
(朱霊は)即座に程昂を斬って状況を上聞した。
太祖は手書して言った。
「兵中に危険を為す者(が現れる)の所以は
外は敵国に相対していて
内に姦謀、不測の変事が有るためだ。
昔、鄧禹が光武帝の軍を中分して
西へ出行した際、宗歆・馮愔の難事が有り
後に(ボロ負けして)
二十四騎を引き連れて
洛陽へ帰還する事になったが
どうして鄧禹がこれによって
減損したであろうか?
来たる書は懇切で
多く咎過を引いているが
必ずしも云う所の如くではあるまい」
文帝が即位すると
朱霊を鄃侯に封じて
その戸邑を増やした。
詔に曰く、
「将軍は先帝を佐命し
兵をつかさどり年を歴て
威は方邵(方叔、召虎)を過ぎ、
功は絳灌(灌嬰)を踰えている。
図籍の美とする所も
何を以て加えようか。
朕は天命を受け帝となって海内を有し
元功の将、社稷の臣は皆
朕とともに慶福を共同するもので
これを無窮に伝える者である。
今、(将軍を)隃侯に封じる。
富貴となっても故郷に帰らぬは
夜に錦繍を着て行くようなものである、
もし平常から志す所があれば
どうか包み隠す事のないように」
朱霊は謝して述べた。
「高唐が宿願とする所でございます」
こうして改めて高唐侯に封じられた。
薨じると、威侯と諡された。
(註釈)
ほか、朱霊が出てくる所↓
・武帝紀
袁術自敗於陳,稍困,袁譚自青州遣迎之。術欲從下邳北過,公遣劉備、朱靈要之。會術病死。程昱、郭嘉聞公遣備,言於公曰:「劉備不可縱。」公悔,追之不及。備之未東也,陰與董承等謀反,至下邳,遂殺徐州刺史車冑,舉兵屯沛。遣劉岱、王忠擊之,不克。
(211年)秋七月,公西征,魏書曰:議者多言「關西兵彊,習長矛,非精選前鋒,則不可以當也」。公謂諸將曰:「戰在我,非在賊也。賊雖習長矛,將使不得以刺,諸君但觀之耳。」與超等夾關而軍。公急持之,而潛遣徐晃、朱靈等夜渡蒲阪津,據河西為營。
(215年)三月,公西征張魯,至陳倉,將自武都入氐;氐人塞道,先遣張郃、朱靈等攻破之。
・斉王紀
四年(243年)春正月,帝加元服,賜羣臣各有差。夏四月乙卯,立皇后甄氏,大赦。五月朔,日有蝕之,旣。秋七月,詔祀故大司馬曹真、曹休、征南大將軍夏侯尚、太常桓階、司空陳羣、太傅鍾繇、車騎將軍張郃、左將軍徐晃、前將軍張遼、右將軍樂進、太尉華歆、司徒王朗、驃騎將軍曹洪、征西將軍夏侯淵、後將軍朱靈、文聘、執金吾臧霸、破虜將軍李典、立義將軍龐德、武猛校尉典韋於太祖廟庭。
・夏侯淵伝
十四年(209),以淵為行領軍。太祖征孫權還,使淵督諸將擊廬江叛者雷緒,緒破,又行征西護軍,督徐晃擊太原賊,攻下二十餘屯,斬賊帥商曜,屠其城。從征韓遂等,戰於渭南。又督朱靈平隃糜、汧氐。與太祖會安定,降楊秋。
十七年(212),太祖乃還鄴,以淵行護軍將軍,督朱靈、路招等屯長安,擊破南山賊劉雄,降其衆。圍遂、超餘黨梁興於鄠,拔之,斬興,封博昌亭侯。馬超圍涼州刺史韋康於兾,淵救康,未到,康敗。去兾二百餘里,超來逆戰,軍不利。汧氐反,淵引軍還。
・于禁伝
太祖常恨朱靈,欲奪其營。以禁有威重,遣禁將數十騎,齎令書,徑詣靈營奪其軍,靈及其部衆莫敢動;乃以靈為禁部下督,衆皆震服,其見憚如此。遷左將軍,假節鉞,分邑五百戶,封一子列侯。
・趙儼伝
時于禁屯潁陰,樂進屯陽翟,張遼屯長社,諸將任氣,多共不協;使儼并參三軍,每事訓喻,遂相親睦。太祖征荊州,以儼領章陵太守,徙都督護軍,護于禁、張遼、張郃、朱靈、李典、路招、馮楷七軍。
・満寵伝
(228年)秋,使曹休從廬江南入合肥,令寵向夏口。寵上疏曰:「曹休雖明果而希用兵,今所從道,背湖旁江,易進難退,此兵之窪地也。若入無彊口,宜深為之備。」寵表未報,休遂深入。賊果從無彊口斷夾石,要休還路。休戰不利,退走。會朱靈等從後來斷道,與賊相遇。賊驚走,休軍乃得還。是歲休薨,寵以前將軍代都督揚州諸軍事。
・先主伝
袁術欲經徐州北就袁紹,曹公遣先主督朱靈、路招要擊術。未至,術病死。
一番最後に出てくるのが
228年の石亭の戦いの時だと思われます。
于禁伝に書かれてた
「曹操は常に朱霊を恨んでいた」
その理由については結局
ナゾのままでしたが、
取り返しのつかないミスといえば
やはり劉備を独立させちゃった事かな…と。




