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淡々三国志  作者: ンバ
蜀書第六、関羽伝
6/603

註二、劉備と別行動

続いて魏書。短いです。

註2.

魏書雲:以羽領徐州。而身還小沛。


(訳)

魏書にいう。

関羽に徐州を治めさせた。

劉備自身は小沛しょうはいに帰った。


(註釈)

199年、劉備は

曹操が置いた徐州刺史の

車冑しゃちゅうを殺して独立。

殆ど騙し討ちに近い形です。


ここまでの経緯を辿ると、

193年に、曹操の父曹嵩(そうすう)

徐州で陶謙とうけんの配下に殺害され

怒った曹操は徐州に侵攻し

虐殺を行います。


劉備は公孫瓚こうそんさんから

徐州刺史の陶謙に鞍替えし、

194年に陶謙が亡くなると

徐州の統治を任されます。


この間、張邈ちょうばく陳宮ちんきゅう

呂布りょふを誘って曹操の本拠地を襲い

曹操は撤退を余儀なくされます。


196年、

曹操に敗れた呂布を劉備が匿いますが

劉備が袁術と干戈を交えている隙に

呂布は下邳を奪ってしまいます。


劉備は曹操を頼り、

198年、

曹操は下邳に呂布を追い詰め

遂には滅ぼしました。


劉備が曹操の世話になっている頃

曹操の幕下らは

「今のうちに劉備を殺すべき」と

曹操に進言していましたが

受け入れられませんでした。


そして話は199年に戻り、

曹操は死に体同然の袁術が

袁紹えんしょうの元へ赴こうとしていたため

劉備を派遣して迎撃させます。

このタイミングで劉備は離反しました。


劉備は重要都市の下邳を関羽に任せて

自身は小沛へ帰ってしまいます。


東海とうかい郡で昌覇しょうは(昌豨)が反乱を起こして

劉備が郡県の多数を味方につけると

曹操は劉岱りゅうたい王忠おうちゅうを派兵しましたが

劉備を降すことはできませんでした。


当時曹操は袁紹と対峙していたため

劉備は曹操自身は出撃してこないと

高を括っていましたが、

(実は攻められてて于禁が守った)

曹操がみずから兵を率いて

やって来た事を斥候から知らされると

半信半疑の劉備は曹操の旗印を見た途端

一目散に逃げ出したといいます。


劉備は関羽を見捨てて袁紹のもとへ。


次回、曹操の客将となった関羽が

顔良がんりょうを討ちます。

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