二・註三、西方戦線異常あり/首魁を得ていない
2.
太祖得郃甚喜,謂曰:「昔子胥不早寤,自使身危,豈若微子去殷、韓信歸漢邪?」拜郃偏將軍,封都亭侯。授以衆,從攻鄴,拔之。又從擊袁譚於渤海,別將軍圍雍奴,大破之。從討柳城,與張遼俱爲軍鋒,以功遷平狄將軍。別征東萊,討管承,又與張遼討陳蘭、梅成等,破之。從破馬超、韓遂於渭南。圍安定,降楊秋。與夏侯淵討鄜賊梁興及武都氐。又破馬超,平宋建。太祖征張魯,先遣郃督諸軍討興和氐王竇茂。太祖從散關入漢中,又先遣郃督步卒五千於前通路。至陽平,魯降,太祖還,留郃與夏侯淵等守漢中,拒劉備。郃別督諸軍,降巴東、巴西二郡,徙其民於漢中。進軍宕渠,爲備將張飛所拒,引還南鄭。拜蕩寇將軍。劉備屯陽平,郃屯廣石。備以精卒萬餘,分爲十部,夜急攻郃。郃率親兵搏戰,備不能克。其後備於走馬谷燒都圍,淵救火,從他道與備相遇,交戰,短兵接刃。淵遂沒,郃還陽平。當是時,新失元帥,恐爲備所乘,三軍皆失色。淵司馬郭淮乃令衆曰:「張將軍,國家名將,劉備所憚;今日事急,非張將軍不能安也。」遂推郃爲軍主。郃出,勒兵安陳,諸將皆受郃節度,衆心乃定。太祖在長安,遣使假郃節。太祖遂自至漢中,劉備保高山不敢戰。太祖乃引出漢中諸軍,郃還屯陳倉。
(訳)
太祖は張郃を得て甚だ喜び、こう言った。
「昔、伍子胥は早くに寤らず
自ら身を危うくさせたが、
どうして微子が去り
韓信が漢に帰順した事と
同様でないといえよう?」
張郃を偏将軍に拝し、都亭侯に封じた。
部衆を授かり、鄴攻めに従って
これを抜いた。
一方で、渤海に於ける袁譚攻めに従い、
別れて軍を率いて雍奴を囲み、これを大破した。
柳城討伐に従い、
張遼と倶に軍の先鋒となり、
功績によって平狄将軍に遷った。
別れて東莱を征伐して管承を討ち、
一方で張遼とともに陳蘭、梅成等を討伐し
これを破った。
従って馬超、韓遂を
渭南(渭水の南)にて破った。
安定を囲み、楊秋を降した。
夏侯淵とともに鄜の賊の梁興及び
武都の氐族を討伐し、
一方で馬超を破り、宋建を平定した。
太祖は張魯を征伐する際
先ず張郃に諸軍を監督させて
興和の氐族の王、竇茂を討たせた。
太祖は散関から漢中に入り、
また先んじて張郃に歩卒五千を監督させ
前方にて路を開通させた。
陽平に至ると張魯は降り、
太祖は帰還する際に
張郃と夏侯淵等を漢中の守りとして留め
劉備を拒いだ。
張郃は別れて諸軍を監督し、
巴東、巴西の二郡を降すと
その民を漢中へ徙した。
進んで宕渠へ布陣すると
劉備の将の張飛の為に拒がれる所となり
南鄭へ引き返した。
盪寇将軍に拝された。
劉備は陽平に、張郃は広石に駐屯した。
劉備は精兵一万余を十部に分割して
夜に張郃を急撃した。
張郃は親兵を率いて全力で戦い、
劉備は勝利する事ができなかった。
その後、劉備は走馬谷にて
都囲(本営?)を焼き、
夏侯淵は出火した所の救援に向かったが
他道に沿った劉備とあい遭遇して
交戦する事となり、
短兵(短い武器を持った兵)が刃を接した。
夏侯淵は遂に没してしまい、
張郃は陽平へと帰還した。
当時、元帥(夏侯淵)を失ったばかりの所に
劉備が乗じてくる事を恐れて
三軍は皆、色を失っていた。
夏侯淵の司馬の郭淮が、
そこで衆人に布令して述べた。
「張将軍(張郃)は国家の名将で
劉備の憚る所である。
今日の事態の危急は、
張将軍でなければ安んずる事はできない」
かくて張郃を推して軍主とした。
張郃は出撃の際、兵を勒えて陣を安定させ
諸将は皆、張郃の節度を受けた。
人々の心は、かくて落ち着いた。
太祖は長安に在って
張郃に節を仮させた。
太祖がとうとう自ら漢中へ至ると
劉備は高山を保ち
敢えて戦おうとはしなかった。
太祖はかくて漢中の諸軍を率いて撤退し
張郃は戻って陳倉に駐屯した。
註3.
魏略曰:「淵雖爲都督,劉備憚郃而易淵。及殺淵,備曰:『當得其魁,用此何爲邪!』」
(訳)
魏略にいう、
夏侯淵が都督であったと雖も
劉備は張郃を憚り、
夏侯淵は易かろうと考えていた。
夏侯淵を殺すに及んで、劉備は言った。
「首魁(張郃)を得ねばならんぞ、
これを用いて何とする」
(註釈)
伍子胥は史記に列伝があり、
剛直さを憚られて呉王夫差から死を賜った。
曹操は「早くに悟れなかった」と評した。
早くに悟れたのは、
殷を見限って周へ降った微子と
項羽の所から劉邦のもとへ来た韓信、
そしてあなたである、という論法。
自分が周の武王や漢の高祖だと
言ってるんだから、すごい自信である。
張郃はあっという間に気持ち切り替えて
前の職場を攻めてるように見えるが、
鄴攻めは204年。
さすがに袁紹が生きてる間は
攻撃するのが憚られたのかもしれない。
もしくは陳寿が
イメージダウンしないように
冷却期間を置いたように見える。
柳城攻めは207年7月。
管承攻めは206年8月。
陳蘭、梅成攻めは209年。
211年に関中で馬超や韓遂が反乱。
張遼や楽進が南方に留まって
関羽や孫権と戦うなか、
張郃は西方戦線へ。
7月に馬超を征伐し、
10月には安定にて楊秋を下した。
12月に曹操は帰還し
長安に留まった夏侯淵が
馬超の残党を掃討した。
212年7月ごろ、張郃は
左馮翊の鄜の賊徒である
梁興を、夏侯淵とともに破った。
その後の馬超の動きは
楊阜伝に詳しく記してあります↓
馬超之戰敗渭南也,走保諸戎。太祖追至安定,而蘇伯反河閒,將引軍東還。阜時奉使,言於太祖曰:「超有信、布之勇,甚得羌、胡心,西州畏之。若大軍還,不嚴爲之備,隴上諸郡非國家之有也。」太祖善之,而軍還倉卒,爲備不周。超率諸戎渠帥以擊隴上郡縣,隴上郡縣皆應之,惟冀城奉州郡以固守。超盡兼隴右之衆,而張魯又遣大將楊昂以助之,凡萬餘人,攻城。阜率國士大夫及宗族子弟勝兵者千餘人,使從弟岳於城上作偃月營,與超接戰,自正月至八月拒守而救兵不至。州遣別駕閻溫循水潛出求救,爲超所殺,於是刺史、太守失色,始有降超之計。阜流涕諫曰:「阜等率父兄子弟以義相勵,有死無二;田單之守,不固於此也。棄垂成之功,陷不義之名,阜以死守之。」遂號哭。刺史、太守卒遣人請和,開城門迎超。超入,拘岳於冀,使楊昂殺刺史、太守。
阜內有報超之志,而未得其便。頃之,阜以喪妻求葬假。阜外兄姜叙屯歷城。阜少長叙家,見叙母及叙,說前在冀中時事,歔欷悲甚。叙曰:「何爲乃爾?」阜曰:「守城不能完,君亡不能死,亦何面目以視息於天下!馬超背父叛君,虐殺州將,豈獨阜之憂責,一州士大夫皆蒙其恥。君擁兵專制而無討賊心,此趙盾所以書殺君也。超彊而無義,多釁易圖耳。」叙母慨然,勑叙從阜計。計定,外與鄉人姜隱、趙昂、尹奉、姚瓊、孔信、武都人李俊、王靈結謀,定討超約,使從弟謨至冀語岳,并結安定梁寬、南安趙衢、龐恭等。約誓旣明,十七年九月,與叙起兵於鹵城。超聞阜等兵起,自將出。而衢、寬等解岳,閉冀城門,討超妻子。超襲歷城,得叙母。叙母罵之曰:「汝背父之逆子,殺君之桀賊,天地豈乆容汝,而不早死,敢以面目視人乎!」超怒,殺之。阜與超戰,身被五創,宗族昆弟死者七人。超遂南奔張魯。
また、夏侯淵伝に張郃の名前が
めっちゃ出てくるので、これを追うと
彼の活躍がわかりそう↓
十九年,趙衢、尹奉等謀討超,姜叙起兵鹵城以應之。衢等譎說超,使出擊叙,於後盡殺超妻子。超奔漢中,還圍祁山。叙等急求救,諸將議者欲須太祖節度。淵曰:「公在鄴,反覆四千里,比報,叙等必敗,非救急也。」遂行,使【張郃】督步騎五千在前,從陳倉狹道入,淵自督糧在後。【郃】至渭水上,超將氐羌數千逆【郃】。未戰,超走,郃進軍收超軍器械。淵到,諸縣皆已降。
初,枹罕宋建因涼州亂,自號河首平漢王。太祖使淵帥諸將討建。淵至,圍枹罕,月餘拔之,斬建及所置丞相已下。淵別遣【張郃】等平河關,渡河入小湟中,河西諸羌盡降,隴右平。太祖下令曰:「宋建造為亂逆三十餘年,淵一舉滅之,虎步關右,所向無前。仲尼有言:『吾與爾不如也。』」
二十一年,增封三百戶,并前八百戶。還擊武都氐羌下辯,收氐穀十餘萬斛。太祖西征張魯,淵等將涼州諸將侯王已下,與太祖會休亭。太祖每引見羌、胡,以淵畏之。會魯降,漢中平,以淵行都護將軍,督【張郃】、徐晃等平巴郡。太祖還鄴,留淵守漢中,即拜淵征西將軍。
二十三年,劉備軍陽平關,淵率諸將拒之,相守連年。二十四年正月,備夜燒圍鹿角。淵使【張郃】護東圍,自將輕兵護南圍。備挑郃戰,郃軍不利。淵分所將兵半助郃,為備所襲,淵遂戰死。謚曰愍侯。
潼関で敗れた馬超は、
戎狄たちを味方につけて
隴上の諸県を攻撃していた。
(正月から8月まで攻めて)
212年9月に涼州刺史の韋康を殺害し
冀城を占拠した。
曹操は夏侯淵を救援に遣ったものの
間に合わず、氐族の千万が馬超についたために
夏侯淵はやむ無く踵を返したという。
参涼州軍事の楊阜は韋康の仇討ちを志し、
歴城に駐屯していた外兄の姜叙、
同郷の姜隠、趙昂、尹奉、姚瓊、孔信、
武都の李俊、王霊らに呼びかけ、
従弟の楊謨を遣わして、安定の梁寬や
南安の趙衢、龐恭らと結んだ。
計画は214年の9月に決行に移され、
姜叙が鹵城で挙兵した。
馬超が自ら迎撃に出ると
趙衢と梁寬が冀城を乗っ取り、
帰れなくなった馬超は歷城を襲撃して
姜叙の母を人質に取ったが、
母親は臆する事なく馬超を面罵した。
「おまえは父に背いた逆子で
君を殺した国賊だ。
天と地がおまえを久しく
受け入れるはずがない、
きっと長生きはできんぞ!
どんな面目で人に見えるのか」
怒った馬超は姜叙の母を殺した。
楊阜は傷を受けながらも馬超と交戦し
宗族昆弟に七人もの死者を出しながら
遂に馬超を破った。
馬超は漢中の張魯のもとへ奔り
祁山を包囲したため、
姜叙たちは夏侯淵に救援を要請した。
諸将は曹操の指示を待つべきだと述べたが
夏侯淵は、
「遠く鄴におられる公に報せる頃には
姜叙達は間違いなく敗れているだろう、
急ぎ救援に向かわねばならんぞ!」
と述べ、かくて出撃。
張郃に歩兵と騎兵五千を預けて先鋒とし
陳倉の隘路から入らせ
夏侯淵は後方で兵糧の管理に当たった。
張郃が渭水のほとりに至ると
馬超は氐族や羌族の数千を率いて
迎撃しようとしたが、
結局戦わずして逃げ出した。
張郃は軍を進めて馬超の器械を回収し、
夏侯淵が至って諸県はすべて下った。
(なお馬超は、蜀を攻めていた劉備に帰順した)
枹罕の宋建が涼州で反乱を起こし
自ら「河首平漢王」を号すると
曹操は夏侯淵に諸将を率いさせてこれを討たせた。
夏侯淵は到着すると枹罕を囲み、
一月余りでこれを抜くと
宋建と彼の配置した丞相以下を斬った。
張郃は別働隊として河関を破り
渡河して小湟中へ入ると
河西の羌族らをことごとく降して
隴右を平定した。
「宋建が反逆して三十余年になるが
夏侯淵はたった一度の挙動でこれを滅ぼし
隴右を虎歩して向かうところ敵なし!
仲尼のいう
〝吾と汝(子貢)は(顔回に)及ばない〟
とは、このことだ!」
と、曹操も夏侯淵をベタ褒めだが、
劉備は夏侯淵よりも張郃の方を
警戒していた。
215年の3月に
曹操が張魯を征伐した際も張郃は先鋒を担い
興和の氐族の王、竇茂を討った。
曹操はさらに張郃に歩兵五千を率いさせて
道を通じさせ、散関から漢中に入った。
しぶとく抵抗を続けていた韓遂は
西平、金城の麴演、蔣石らに斬られ、
首が曹操に届けられた。
7月、曹操は張魯を降した。
夏侯淵は張郃、徐晃らを率いて
巴郡を平定、その民を漢中へ徙すと
留まって劉備に備えた。
一方、孫権と急ぎ和睦して
漢中へと向かっていた劉備は、
黄権の進言により
諸将を率いて張魯を迎えに行ったが
すでに曹操に降ってしまった後だったという。
劉備は巴西太守の張飛を遣わして
張郃を防がせた。
宕渠、蒙頭、盪石に進軍し、
互いに防ぎ合うこと五十余日に及んだ。
張飛は精兵一万余りを率い
他道から張郃の軍に襲いかかった。
山道が狭すぎて張郃の軍は
前後に助け合うことができず、
散々に打ち破られてしまう。
張郃は馬を棄て、山に沿って逃げ
麾下の十余人だけを連れて
間道を抜けて退却し、南鄭へ帰還した。
張郃がここまでボロボロにされたのは
初めてのことであり、
地形を上手く利用した張飛の
戦術眼には目を見張るものがある。
劉備は法正の進言を容れて
漢中へ出撃し、
張飛、馬超、呉蘭らを下弁に駐屯させた。
曹操は曹洪にこれを防がせた。
218年3月、曹休の好判断により
呉蘭は斬られ、張飛、馬超は撤退した。
その後劉備は陽平関まで進駐して
夏侯淵、張郃、徐晃と対峙。
陳式に馬鳴閣の道を絶たせたが
徐晃に妨害されてしまい、
巴漢の間を守る張郃を崩すことができない。
曹操は自ら劉備を討たんとして
218年9月には長安に至った。
お互いに決定打を与えられず、
劉備は陽平関から
南のかた沔陽県の定軍山に移った。
219年正月に
劉備が夜間に都囲及び逆茂木を焼くと
夏侯淵は張郃に東の囲みを護らせ
自身は軽兵を率いて南の囲みへ向かった。
張郃が劉備に攻められると
夏侯淵は半分の兵を救援を遣ったが
黄忠に高所から襲撃され、遂に討たれてしまった。
総指揮官である夏侯淵が討たれたとあって
漢中の諸軍は震え上がったが、
郭淮の声で張郃が代役に推され、
軍中は少しずつ落ち着きを取り戻したという。
劉備は首魁(張郃)の方をまだとらえていない、
油断するな、と諸将を戒めていた。
219年3月、曹操がついに斜谷までやって来た。
劉備は自信たっぷりに
「曹操が来てもどうする事もできんさ、
私は必ず漢川を保有してみせる」
と言い放ち、ガチガチにガードを固めた。
5月、遂に曹操は漢中から撤退した。
蜀はここがピークであり
直後に樊城、夷陵と
手痛い敗戦が続く事になる。
夏侯惇、夏侯淵、曹仁、張遼、楽進、于禁ら
魏を支えた将もどんどん退場していくが
張郃の出番はまだまだ終わらない。




