三、いぶし銀の敗戦処理
3.
建興元年、為中護軍・征南將軍、封永昌亭侯、遷鎮東將軍。五年、隨諸葛亮駐漢中。明年、亮出軍、揚聲由斜谷道、曹真遣大衆當之。亮令雲與鄧芝往拒、而身攻祁山。雲・芝兵弱敵彊、失利於箕谷、然斂衆固守、不至大敗。軍退、貶為鎮軍將軍。
(訳)
建興元年(223年)
中護軍・征南将軍となり
永昌亭侯に封じられた。
昇進して鎮東将軍となった。
五年(227年)
諸葛亮に随行して漢中に駐留した。
明年、諸葛亮が出陣し
斜谷道を通ると喧伝すると、
曹真は大軍を派遣しこれに当たらせた。
諸葛亮は趙雲と鄧芝に命じて
曹真の進軍を阻ませ、
自身は祁山を攻撃した。
趙雲と鄧芝の兵は弱く、敵は強く
箕谷において敗北したが
軍勢を収斂して固守したため
大敗には至らなかった。
軍が撤退すると、鎮軍将軍に降格した。
(註釈)
劉備が漢中王や皇帝に即位したとき
趙雲は特に昇進したり
封爵された気配はありません。
223年に劉備が亡くなり、
227年頃から
諸葛亮の北伐戦線が始まります。
諸葛亮は趙雲と鄧芝を陽動に用い
斜谷を通って郿を奪うと喧伝し、
西側に迂回して祁山を攻めました。
諸葛亮の来攻に動揺して
天水・南安・安定の三郡が蜀に寝返り
天水の姜維はこの件で行き場をなくし
諸葛亮に降伏しています。
ここでみな、経験豊富な魏延か呉懿に
先鋒を任せるべきだと議論しますが
諸葛亮は馬謖を抜擢します。
この采配が大きく外れてしまい
結局最初の北伐は失敗しました。
趙雲と鄧芝の軍は単なる囮だったゆえ
曹真の軍勢に打ち破られてしまいますが
それでも懸命に守って
大敗には至らなかったとあります。
諸葛亮は戦後の論功行賞において
馬謖らを処刑し、自身や趙雲を降格させる中
手柄のあった王平は昇進させています。




