一、後主を守り抜く
ガツガツ行かない仕事人、
趙雲伝を読みます。
普通に読むとすぐ終わっちゃうんですが
趙雲の子孫が書いた? という
「趙雲別伝」が曲者です。
趙雲伝はまず註釈を全部スルーして
本文だけ読んでいきます。
そのあとで註釈をまとめて紹介致します。
1.
趙雲字子龍、常山真定人也。本屬公孫瓚、瓚遣先主為田楷拒袁紹、雲遂隨從、為先主主騎。及先主為曹公所追於當陽長阪、棄妻子南走、雲身抱弱子、即後主也、保護甘夫人、即後主母也、皆得免難。遷為牙門將軍。先主入蜀、雲留荊州。
(訳)
趙雲はあざなを子龍といい
常山郡真定県の人である。
もとは公孫瓚に属しており
公孫瓚が先主を派遣して
田楷のために袁紹を防がせると
趙雲はかくてこれに従い
先主の主騎となった。
先主が当陽の長阪において
曹公の追撃を受け
妻と子を捨てて南へ逃走すると
趙雲はその身に幼子を抱えた。
即ち後主(劉禅)である。
甘夫人を保護した、
即ち後主の母である。
(趙雲のおかげで)皆、難を免れ得て
(趙雲は)牙門将軍となった。
先主が蜀へ入ると、
趙雲を荊州に留めた。
(註釈)
常山の趙子龍、
劉備の本籍の涿郡から
やや西方の出身です。
191年前後、公孫瓚は
関東で袁紹と相争っており、
公孫瓚から青州刺史に任命された田楷は
任地の青州にて袁紹軍と交戦しています。
公孫瓚が袁紹に攻められた田楷を
劉備に救援させた折、
趙雲はこれに随行する事になり、
そこで意気投合したのか、以降は
劉備とともに行動するようになります。
208年の長阪の戦いでは
劉備が妻子を見捨ててダッシュで逃げるなか
趙雲は劉備の妻子をしっかり保護して
牙門将軍に任じられています。
「趙雲の活躍」というと
真っ先にこの長阪での場面が浮かぶ方も
少なくないのではないでしょうか。




