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淡々三国志  作者: ンバ
魏書第十一、袁渙伝
496/603

註四、その後の袁氏

註4.

袁氏世紀曰:渙有四子,侃、㝢、奧、準。侃字公然,論議清當,柔而不犯,善與人交。在廢興之間,人之所趣務者,常謙退不為也。時人以是稱之。歷位黃門選部郎,號為清平。稍遷至尚書,早卒。㝢字宣厚,精辯有機理,好道家之言,少被病,未官而卒,奧字公榮,行足以厲俗,言約而理當,終於光祿勳。準字孝尼,忠信公正,不恥下問,唯恐人之不勝己。以世事多險,故常治退而不敢求進。著書十餘萬言,論治世之務,為易、周官、詩傳,及論五經滯義,聖人之微言,以傳於世。此準之自序也。荀綽九州記稱準有儁才,泰始中為給事中。袁氏子孫世有名位,貴達至今。

(訳)

袁氏世紀にいう、

袁渙には四人の子がいた、

袁侃えんかん袁㝢(えんう)袁奧えんおう袁準えんじゅんである。


袁侃は字を公然こうぜん

論議は清らかかつ妥当、

柔和であるが犯しがたく

人との交際を善くした。


廃立と勃興の間にあって

人が要務として趣く所で

常に謙譲、辞退して

行う事がなかった。

当時の人はこの事で彼を称えた。


黄門、選部郎を歴任して

清廉で公平であると号された。

稍稍に昇進して尚書にまで至ったが

早くに卒してしまった。


袁㝢は字を宣厚せんこう

精密な弁は機知を有しており

道家の言辞を好んだ。

少くして病に罹り

官職に就かぬうちに卒した。


袁奥は字を公栄こうえい

行いは風俗をいましめるに足り

物言いは簡約的であったが

理論は妥当なものであり、

(官職は)光禄勲こうろくくんに終わった。


袁準は字を孝尼こうじ

忠信、公正な人柄で

目下に問う事を恥とせず

ただ、人が自身に勝らぬ事を

恐れるのみであった。


世事に険難が多かったために

常に辞退するよう処置して

敢えて昇進を求めようとは

しなかった。


文書十余万言を著して

治世の要務について論じ、


易、周官、詩経の伝を為し、

ならびに五経の滞りある意義や

聖人の※微妙な言辞について論じることで

(※いまいちという意味ではない)

世に伝わった。


これは袁準の自序である。


荀綽の九州記では、

袁準は俊才を有して称えられており

泰始年間に給事中となった、

と記されている。


袁氏の子孫は世世名声や地位を有し

尊貴、栄達は現在まで至っている。


(註釈)

袁渙の子孫は

その後どうなったんだろう?


新唐書しんとうしょ糾謬きゅうぼく」にいう、

袁渙の曾孫の袁瓌えんかいは、

東晋(318〜420)に仕えた。

袁瓌の族孫の袁湛えんたんは、

劉宋(420〜479)に仕えた。

袁湛の一族は代々南朝に仕えたが、

陳が滅ぶ(589)と、袁朗えんろう

はじめて隋に仕官した。


なんと五胡十六国、南北朝時代を越え

隋が天下統一するまでは出てきます。

漢代から隋代まで名を成すってスゴい。


たぶん唐代以降にも出てくる。


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