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淡々三国志  作者: ンバ
魏書第十一、袁渙伝
491/603

一・二・註一、正論で黙らせる

今回は魏書十一やります。

孔融と公孫度の出番が多いかも。

1.

袁渙字曜卿,陳郡扶樂人也。父滂,為漢司徒。

(訳)

袁渙えんかんは字を曜卿ようけい、陳郡扶楽(ふがく)県の人である。

父の袁滂えんぼうは漢の司徒しととなった。


2.

當時諸公子多越法度,而渙清靜,舉動必以禮。郡命為功曹,郡中姧吏皆自引去。後辟公府,舉高第,遷侍御史。除譙令,不就。劉備之為豫州,舉渙茂才。後避地江、淮間,為袁術所命。術每有所咨訪,渙常正議,術不能抗,然敬之不敢不禮也。頃之,呂布擊術於阜陵,渙往從之,遂復為布所拘留。布初與劉備和親,後離隙。布欲使渙作書詈辱備,渙不可,再三彊之,不許。布大怒,以兵脅渙曰:「為之則生,不為則死。」渙顏色不變,笑而應之曰:「渙聞唯德可以辱人,不聞以罵。使彼固君子邪,且不恥將軍之言,彼誠小人邪,將復將軍之意,則辱在此不在於彼。且渙他日之事劉將軍,猶今日之事將軍也,如一旦去此,復罵將軍,可乎?」布慙而止。

(訳)

当時は諸公子の多くが

法度を侵越していたが

袁渙は清静としており

挙動は必ず礼によっていた。


郡の命で功曹となると

郡中の奸悪なる官吏は

皆自ら引き去った。


その後、公府に召辟され

高第に推挙されて

侍御史じぎょしに遷った。

しょうの令に除されるも、就任しなかった。


劉備が州(刺史)となると

袁渙を茂才に推挙した。


その後、動乱を江水・淮水間に避け

袁術の命を為すようになった。


袁術が咨訪(相談)するたび

袁渙は常に公正に論議し、

袁術は抗う事ができなかったが

彼を敬い、敢えて

礼に外れるような事はしなかった。


しばらくして、呂布が

袁術を阜陵ふりょうに撃ったため

袁渙は往きてこれに従い、

かくて今度は呂布の為に

拘留される所となった。


呂布は初め劉備と和親であったが

後に仲違いをした。


呂布は袁渙に書を作らせて

劉備を侮辱しようとしたが、

袁渙は肯じず、再三に渡って

これを強要しても、許諾しなかった。


呂布は大いに怒り、兵を以って

袁渙を脅しつけ、こう言った。


「これを為せば生かしてやるが

為さねば死ぬことになるぞ」


袁渙の顔色は変わらず、

笑ってこれに応じた。


わたしは、ただ徳のみが

人を辱めると聞いておりまして、

罵倒については(人を辱めるとは)

聞いておりません。


彼の方(劉備)がもとより君子であれば

将軍のお言葉に恥じ入る事はありません、

彼の方がまことに小人であれば

将軍のご意向に報復なさるでしょう。

さすれば恥辱は此方こちらにあって

彼方あちらにはなくなります。


かつ、渙は他日に

劉将軍に事えておりながら

なお今日は将軍に事えております。


もし一旦ここを去る事になったら

今度は将軍を罵倒する事に

なっても、よろしいのですか?」


呂布は慚愧し、取り止めた。



註1.

袁宏漢紀曰:滂字公熈,純素寡欲,終不言人之短。當權寵之盛,或以同異致禍,滂獨中立於朝,故愛憎不及焉。

(訳)

袁宏えんこうの漢紀にいう、

袁滂えんぼうは字を公煕こうきといい

純粋にして素朴で欲(すく)なく、

終ぞ人の短所には言及しなかった。


権貴、恩寵が盛んにならんとすれば

同異(同調者への親愛、異分子への弾圧?)

を以って禍を招く者もいたが

袁滂は獨り朝廷に於いて中立であったため

愛憎が及ぶ事はなかった。


(註釈)

袁滂と袁渙は陳の袁氏。

袁紹、袁術を輩出した汝南袁氏から

枝分かれしたものと思われる。


親子で諱の偏が同じなのは珍しい。


父の袁滂のあざなは「公喜」で、

「公煕」とするのは漢紀のみ?

どちらも「よろこぶ」の意。

公煕だったとすると、

袁紹がむすこに煕って名付けてるの

失礼だと思うし、公喜が正しいと思う。


袁滂は178〜179に漢の司徒。

匈奴の檀石槐だんせきかい

夏育かいくたちをボコった翌年あたり。


列伝はないけど、後漢書霊帝紀のほか

董卓伝にも少し出てくる↓


詔以卓為中郎將,副左車騎將軍皇甫嵩征之。嵩以無功免歸,而邊章、韓遂等大盛。朝廷復以司空張溫為車騎將軍,假節,執金吾袁滂為副。


中平元年(184)の辺章へんしょう韓遂かんすい討伐の時には

官位は執金吾であり、

張温ちょうおんの副将として従軍している。


息子の袁渙は、はじめ郡の功曹。

高第に推挙され

三公の役府から召辟される。

譙の長を打診されるが、赴任しなかった。

書かれてないけど、董卓とうたくの叙任かな?


その後、豫州刺史の劉備から

茂才に推挙された。

劉備は袁譚えんたんも茂才に推挙してる。


先主伝にいう、

(194年)陶謙とうけんが上表して

劉備を豫州刺史とし

小沛に駐屯させた。


曹操が劉備に与えた官位は

豫州刺史でなく豫州牧なので、

袁渙が茂才に推挙されたのは

劉備が徐州入ってから。


徐州と豫州は隣接してるので

当時袁渙が徐州にいたとしても

特に不自然ではない。

後漢書で張温と袁滂に絡みがあるから

董卓が張温殺した事件に

感じない所がないわけがない。

多分、董卓から離れたかったんだろう。


196年に劉備と袁術が争うと

呂布が虚に乗じて下邳を襲い、

劉備は呂布に和睦を申し入れる。


袁渙は劉備に仕えていたようだが

袁術えんじゅつが呂布と戦う(197)

以前のどこかで、袁術のもとに行った。

親戚にあたる偉い人。


陶謙、公孫瓚(劉備)は

もともと袁術側だったわけだから

寝返ったという表現は適切でない、

収まるべきとこへ収まった感じ?


「遂復為布所拘留」で

「復」ってあるから、

袁渙が拘留されるのは

袁術から続いての呂布で、

2回目ともとれる。


劉備が停戦の使者として

同族の袁渙を遣わしたら、

袁術が馬日磾ばじつていの時みたく

彼を拘留した可能性もありそう。


袁術が相談をすると

毎回袁渙は正論を吐くので

袁術は抗論できなかった。

かといって爪弾きにしたりせず

彼に敬意を払っていたようだ。


呂布が袁術に大勝すると

今度は呂布の陣営に、忙しい。


呂布に、劉備の誹謗中傷文を

書けと命令されたが

ここでも正論で呂布を黙らせた。


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