一、勇毅三軍に冠たり
記述は少ないが扱いは大きい。
漢中にその勇名を轟かせた
老将黄忠の伝を読みます。
1.
黄忠字漢升、南陽人也。荊州牧劉表以為中郎將、與表從子磐共守長沙攸縣。及曹公克荊州、假行裨將軍、仍就故任、統屬長沙守韓玄。先主南定諸郡、忠遂委質、隨從入蜀。自葭萌受任、還攻劉璋、忠常先登陷陳、勇毅冠三軍。益州既定、拜為討虜將軍。
(訳)
黄忠はあざなを漢升といい、南陽の人である。
荊州牧の劉表は彼を中郎将に任じて
劉表の従子の劉磐とともに
長沙郡の攸県を守らせた。
曹公が荊州を破るに及んで
仮の裨将軍となり
そのまま元の任に就き
長沙太守の韓玄に統属した。
先主が南の諸郡を平定すると
黄忠は臣従し、随行して蜀へ入国した。
葭萌から任を受けて
引き返して劉璋を攻撃した。
黄忠は常に先駆けて陣を陥とし
勇壮さは三軍の筆頭であった。
益州が平定されると、討虜将軍を拝命した。
(注釈)
黄忠は南陽の人。荊州グループです。
黄忠伝は記述が少ないため
僅かな情報を吟味して
敷延していくほかありません。
もともと黄忠は劉表の配下で
劉表の甥の劉磐とともに
長沙を守っていました。
劉表が荊州牧に任じられたのは
192年の10月です。
黄忠が中郎将になったのも
恐らくはこれ以降という事になります。
太史慈伝を読むと、劉磐は勇猛で
諸郡を荒らし回っていたとあり、
孫策の命で防衛に当たった
太史慈を警戒して引っ込んだ……
という記述があります。
そしてそのすぐ後に
「太史慈は弓に巧み」という記述が。
黄忠といえば弓の名手として有名ですが
これは三国志演義の中の設定です。
演義の著者はキャラの薄い
黄忠の肉付けを行うために
周辺人物の記録を拾っていくうち
この太史慈の記述を目にして
「これだ!」
と思ったんじゃないでしょうか。
こんなクソみたいな推論を書かなきゃ
間が持たないくらい
黄忠という人物は語る事が少ないのです。
劉備の入蜀の戦で
黄忠は三軍の筆頭と称されるほど
目覚ましい活躍を見せて
戦後に討虜将軍となりました。
「勇毅冠三軍」は定型文みたいなものですが
とっても格好良いですね。
この後、金星を挙げます。




