一・註一、廬江の武侠/愛妾殉死
1.
陳武字子烈,廬江松滋人。孫策在壽春,武往脩謁,時年十八,長七尺七寸,因從渡江,征討有功,拜別部司馬。策破劉勳,多得廬江人,料其精銳,乃以武爲督,所向無前。及權統事,轉督五校。仁厚好施,鄉里遠方客多依託之。尤爲權所親愛,數至其家。累有功勞,進位偏將軍。建安二十年,從擊合肥,奮命戰死。權哀之,自臨其葬。
(訳)
陳武は字を子烈、廬江郡松滋県の人。
孫策が寿春に在った際
陳武は往きて謁見した。
この時十八歳、身長は七尺七寸(185cm余)。
そこで長江の渡河に従い
征討して戦功をあげ、
別部司馬に拝された。
孫策は劉勲を破った際に
廬江の人員を多く得たため、
その精鋭を科り、かくて
陳武をその監督役としたが、
向かう所敵なしであった。
孫権が事業を統括するに及んで
督五校に転任した。
仁義厚く、施しを好み、
郷里や遠方からの客分が
多数彼に依託していた。
尤も(最も)孫権から親愛されており
しばしば彼の家へ至っていた。
累ねて功労があり、
偏将軍の地位に昇進した。
建安二十年(215)に
合肥攻撃に従軍し、
命懸けで奮闘するも、戦死した。
孫権はこれを哀しみ
自ら彼の葬儀に臨んだ。
註1.
江表傳曰:權命以其愛妾殉葬,復客二百家。孫盛曰:昔三良從秦穆師以之不征;魏妾旣出,杜回以之僵仆。禍福之報,如此之效也。權仗計任術,以生從死,世祚之促,不亦宜乎!
(訳)
江表伝にいう、
孫権はその愛妾に殉葬を命じ、
客分二百家(の租税)を復(免除)した。
孫盛はいう、
昔、三良が秦の穆公に従い(殉死し)、
師団はこれにより征伐が出来なかった。
魏の愛妾が(未亡人となった後)出嫁すると
杜回はこれにより僵仆(倒れる)してしまった。
(殉死による)禍福の報せは
かくの如くに効験があるのである。
孫権は計略に依り術策に任せて
生者を死者に追従させたが、
世祚(国家の命数)の嘲弄も
また当然の事ではないか。
(註釈)
正史だと身長7尺7寸。
演義だと身長7尺で赤目黄顔。
縮んでるケースは珍しい。脱字かな?
太史慈と諸葛恪も7尺7寸。
194年前後に18歳とすると
177年前後の生まれ。
孫策や呂蒙と同年代。
合肥の戦いで戦死してしまい(まだ30代後半の筈)
孫権は彼の愛妾に殉死を命じた。
筑摩の註によると、
「左氏伝」の文公六年に
秦の穆公が亡くなった際に
優秀な臣下三人(三良)を殉死させたが、
人々はこれを嘆いて「黄鳥の歌」をうたった。
君子は、秦の勢いが衰えて
東方へ軍を出す事は
出来なくなるであろうと察した。
黄鳥の歌はたぶん、これの事かな↓
交交黃鳥,止于棘。
誰從穆公?子車奄息。
維此奄息,百夫之特。
臨其穴,惴惴其慄。
彼蒼者天,殲我良人!
如可贖兮,人百其身。
交交黃鳥,止于桑。
誰從穆公?子車仲行。
維此仲行,百夫之防。
臨其穴,惴惴其慄。
彼蒼者天,殲我良人!
如可贖兮,人百其身。
交交黃鳥,止于楚。
誰從穆公?子車鍼虎。
維此鍼虎,百夫之禦。
臨其穴,惴惴其慄。
彼蒼者天,殲我良人!
如可贖兮,人百其身。
宣公十五年に魏と晋が戦った際
戦場の草を結んで
秦の猛将の杜回を転倒させ
魏を有利に導いた老人がいた。
その老人が夢に現れて
「私は殉死を免れた魏武子の妾の父だ」
と告げたのだという。
この世界は生者のためのものだから
死者に合わせんでいいと思うんだよね。




