一・二、神明
1.
劉惇字子仁,平原人也。遭亂避地,客游廬陵,事孫輔。以明天官達占數顯於南土。每有水旱寇賊,皆先時處期,無不中者。輔異焉,以為軍師,軍中鹹敬事之,號曰神明。
(訳)
劉惇は字を子仁、平原の人である。
(訳)
乱に遭遇して(根拠)地を移し、
廬陵に客遊して、孫輔に事えた。
天官(天文)に明るく、
占数に暁達している事から、
南方の地で顕らかとなった。
水害、旱魃、賊の侵略が起こるたびに
すべて先んじて時期を処し、
的中しないという事がなかった。
孫輔は特異なものであるとして
彼を軍師に任じ、
軍中は咸、敬ってこれに事え、
「神明」と号した。
2.
建安中,孫權在豫章,時有星變,以問惇。惇曰:"災在丹楊。"權曰:"何如?"曰:"客勝主人,到某日當得問。"是時邊鴻作亂,卒如惇言。惇於諸術皆善,尤明太一,皆能推演其事,窮盡要妙,著書百餘篇,名儒刁玄稱以為奇。惇亦寶愛其術,不以告人,故世莫得而明也。
(訳)
建安年間(196〜)に
孫権が豫章に在った際、
星に変事が起こった。
劉惇に問うと、劉惇は言った。
「災いが丹楊で起こりましょう」
孫権は言った。
「どのような?」
いわく、
「客が主人に勝ります。
某日に到りて問を得られましょう」
この時、辺鴻が乱を作し
ついには劉惇の言葉の通りとなった。
劉惇は諸術にすべて長じており、
尤(最)も明るかったのは太一で、
その内容をすべて敷衍する事が出来、
要妙を窮め尽くしていた。
著書は百余篇、
名儒者の刁玄が非凡さを称えた。
劉惇もまた
自身の術を重んじて惜しみ、
人に告げる事はなかったため
世はその仔細を得ることはできなかった。
(註釈)
孫堅と孫策の間に孫賁伝をやりましたが
孫賁の弟が孫輔です。
辺鴻は孫権の長弟・孫翊を殺したやつ。
辺洪とも。
その弑逆事件は204年。
刁玄は太子孫登の賓客で
のちに侍中をつとめた。
孫亮の聡明エピソードなんかに出てくる。
劉惇伝は二節のみで終了、
裴松之の注釈もない。
子どもがいたとも書かれてないし
情報が残らなかったのかな。
続いて趙達伝。




