表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
淡々三国志  作者: ンバ
蜀書第六、馬超伝
40/603

三、楊阜の逆襲

流浪の馬超。

最終的に劉備のもとへ。

3.

超走保諸戎,曹公追至安定,會北方有事,引軍東還。楊阜說曹公曰:「超有信、布之勇,甚得羌、胡心。若大軍還,不嚴為其備,隴上諸郡非國家之有也。」超果率諸戎以擊隴上郡縣,隴上郡縣皆應之,殺涼州刺史韋康,據冀城,有其衆。超自稱征西將軍,領并州牧,督涼州軍事。康故吏民楊阜、姜叙、梁寬、趙衢等合謀擊超。阜、叙起於鹵城,超出攻之,不能下;寬、衢閉冀城門,超不得入。進退狼狽,乃奔漢中依張魯。魯不足與計事,內懷於邑,聞先主圍劉璋於成都,密書請降。


(訳)

馬超は逃走して諸々の蛮族を保持した。

曹公は追撃して安定(地名)まで至ったが

北方で変事が起こり、軍を引いて東へ還った。


楊阜ようふが曹公に説いて言った。


「馬超は韓信や黥布のような

武勇を持っており、

甚だていきょうの心を掴んでおります。

もし大軍が帰還したあと、

彼に対する防備を厳重に行わなければ

隴上ろうじょうの諸郡は

国家の領土ではなくなるでしょう」


馬超が果たして諸蛮族を率い

隴上の郡県を攻撃すると

隴上の諸郡は皆これに応じた。


馬超は涼州刺史の韋康いこうを殺害して

冀城を奪うと、その軍勢を配下に収めた。


征西将軍・并州牧・督涼州軍事を自称した。


韋康の元の吏民であった

楊阜ようふ姜叙きょうじょ梁寬りょうかん趙衢ちょうくらは

共謀して馬超を攻撃した。


楊阜と姜叙が城で蜂起し

馬超は出陣しこれを攻めたが

降すことができず

梁寬と趙衢は冀城の門を閉じて

馬超を中へ入れさせなかった。


馬超は進退窮まって狼狽し

そこで、漢中へ逃亡し張魯を頼った。


張魯はともに事を計るに足らなかったため

馬超は内心不安に思い

先主が成都において

劉璋を包囲しているのを聞いて

密書を出して投降を願い出た。


(註釈)

曹操にこてんぱんにやられた馬超ですが

存外すぐに再起しています。

馬超は西涼の異民族に顔がきくのですね。

また、この時漢中の張魯が派兵して

馬超を援護していたと「楊阜ようふ伝」にあります。


潼関で馬超を破ったあと

曹操は馬超を追撃したものの、

蘇伯そはくが河間で反乱を起こしたため

大した備えも出来ずに引き返してしまいます。


ここで登場した涼州刺史の韋康いこう

註一に登場した涼州牧の韋端いたんの子です。


180年代の涼州刺史には

左昌さしょう宋梟そうきょう楊雍ようよう耿鄙こうひらがおり、

コロコロ行政の長が変わってるあたりに

涼州を治める難しさが現れてる気がします。



隴上ろうじょうの諸郡がみな馬超に呼応するなか

楊阜らは唯一()城を固守して

援軍を待ちましたが、結局援軍は現れず、

楊阜らは馬超に和睦を請いました。

馬超はこれに応じましたが、入城すると

涼州刺史の韋康を殺してしまいます。


楊阜らは馬超に復讐を誓い、

密かに計って、

馬超を追い出すことに成功します。

敗走した馬超は漢中に落ち延び、

のちに劉備の元へ向かいます。


潼関の戦いが211年7月頃で、

楊阜らの決起が212年9月。

劉備が雒を抜いて

成都を包囲したのが214年7月頃です。


冀城の戦いでは、女性でありながら

戦闘に参加したといわれる

王異おういも登場します。


三国志演義でも、ここの流れは

殆ど正史そのままになっています。


三国志を勉強し始めた当時

夢中になってこの辺を読んでました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ