一、恩愛兄弟の如く
1.
關羽字雲長、本字長生、河東解人也。亡命奔涿郡。先主於郷里合徒衆、而羽與張飛為之禦侮。先主為平原相、以羽・飛為別部司馬、分統部曲。先主與二人寢則同牀、恩若兄弟。而稠人廣坐、侍立終日、隨先主周旋、不避艱險。先主之襲殺徐州刺史車冑、使羽守下邳城、行太守事、而身還小沛。
(訳)
関羽は字を雲長といい
もとの字を長生という。
河東郡解県の人である。
亡命して涿郡に出奔した。
先主(劉備)が郷里に於いて衆徒を集めた時
関羽は張飛とともに彼の護衛となった。
先主が平原の相となると
関羽と張飛を別府司馬に任じて
兵を分けてそれぞれに指揮させた。
先主は二人と同じ寝台で休み
恩愛は兄弟の如くであった。
しかし人が大勢集まる席に於いては
終日に渡って侍立し
先主に付き従って奔走し
艱難や逆境を厭わなかった。
先主が徐州刺史の車冑を
襲撃し殺害すると、関羽に下邳の城を守らせ
太守の業務を代行させ、自身は小沛へ帰った。
(注釈)
三国志を書いた陳寿は蜀出身の人なので
祖国の皇帝でもある劉備を名指ししません。
基本的に蜀の記述においては
「先主」と記されます。
二代目の劉禅が「後主」です。
三国志は超大雑把に分けると
西晋の時代に書かれた
「正史三国志」と
明の時代に書かれた通俗小説
「三国志演義」の二つがあります。
前者は史書としての「三国志」
後者は大衆娯楽としての「三国志」です。
各々の記述の違いについて、
列伝を読み解きながら補足していきます。
関羽の出身地、解県には
塩湖があり、塩の産地として有名です。
関羽が現代で商売の神様として
祀られているのも、商人らが
地元の英雄として、
信義に厚いとされる関羽を
広告塔に仕立てたからだと考えられます。
そして、一説によれば塩の利益関係で
役人と悶着起こして故郷を出奔したとか。
それに伴って改名したとすれば
あざなが二つ載ってるのも自然?
また、関羽の元の名前は
「馮賢」という説もあり
「三国志集解」では
「范長生」という人がいて、
あざなが被ってしまったため
「雲長」に改めたという経緯が語られます。
「范長生は130歳まで生きていた」と
いう部分がなければ信じていました。
そして幽州涿郡で劉備と出会って
用心棒的な事を始めました。
やはりある程度、腕っ節が強いんでしょう。
原文では「禦侮」とあるので
劉備が周りから舐められないように
関羽と張飛が威嚇していた、という
ニュアンスにもなりそうです。
劉備・関羽・張飛は意気投合し
同じベッドで寝るほど親密になります。
まるで兄弟のような恩をかけ、
関羽と張飛は、劉備のためなら
どんな逆境にも耐えられる……
「生まれる日は違っていても
死ぬ時はいっしょだぜ!!」という
三国志演義における桃園結義の
元になった描写っぽいです。
3人が同じベッドで寝ているという事実に
いかがわしい妄想を
逞しくさせてしまいそうな時は
うち二人はヒゲのおっさんと
思うようにしましょう。
劉備が平原の相になった時期は
まだ公孫瓚の元に身を寄せていた頃です。
191〜2年ごろ??
この頃から関羽と張飛は
劉備の別働隊を指揮するようになります。
劉備が車冑を殺害したとあるのは
199年ごろ。
曹操の元を離れて小沛で
独立したものの、すぐ破られて
関羽は曹操に囚われます。