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淡々三国志  作者: ンバ
魏書第二十一、王粲伝
381/603

八、我が愛しき文友よ

8.

瑀以十七年卒。幹、琳、瑒、楨二十二年卒。文帝書與元城令呉質曰:「昔年疾疫,親故多離其災,徐、陳、應、劉,一時俱逝。觀古今文人,類不護細行,鮮能以名節自立。而偉長獨懷文抱質,恬淡寡欲,有箕山之志,可謂彬彬君子矣。著中論二十餘篇,辭義典雅,足傳于後。德璉常斐然有述作意,其才學足以著書,美志不遂,良可痛惜!孔璋章表殊健,微爲繁富。公幹有逸氣,但未遒耳。元瑜書記翩翩,致足樂也。仲宣獨自善於辭賦,惜其體弱,不起其文;至於所善,古人無以遠過也。昔伯牙絶絃於鍾期,仲尼覆醢于子路,痛知音之難遇,傷門人之莫逮也。諸子但爲未及古人,自一時之儁也。」

(訳)

阮瑀げんうは十七年(212)に卒し、

徐幹じょかん陳琳ちんりん応瑒おうよう劉楨りゅうてい

二十二年(217)に卒した。


文帝は元城げんじょうの令である

呉質ごしつに書状を与えて述べた。


「昔年の疫病で、

親類や昔馴染みの多くが

その厄災に見舞われ、

徐・陳・応・劉が

一度に揃って逝ってしまったよ。


古今の文人を観るに、

おおよそ細かい作法を護らず

名節を以て自立できた者はすくない。


しかるに、偉長いちょう(徐幹)だけは

文学の才を懐きながら質朴も備え、

恬淡にして寡欲であり、

箕山の志を有していた。

彬彬たる君子と謂うべきだろう。

中論二十余篇を著しているが

その辞義は典雅であり

後世に伝えるに足るものである。


徳璉とくれん(応瑒)は

斐然として術作の意を有しており

その才学は書を著すに足るものだが

美しい志を全うできなかった。

実に痛惜すべきである。


孔璋こうしょう(陳琳)の章や表は

殊更壮健であるが、いささか繁雑である。


公幹こうかん(劉楨)は放逸なる気質を有しているが、

ただ遒勁しゅうけい(文章が力強い)でないだけだ。


元瑜げんゆ(阮瑀)の書・記は翩翩として

楽しむに足りるものである。


仲宣ちゅうせん(王粲)は獨り

辞・賦を善くしていたが

惜しむらくはその体が貧弱な事で

その文章には奮い起つような風情がない。

善い所であれば、

古人とそうはかけ離れておらぬ。


昔、伯牙はくが鍾子期しょうしき

死に於いて弦を絶ち、

仲尼ちゅうじ(孔子)は子路しろ

死に於いてひしおを覆した。


音楽を知る者に遇う難しさを痛み、

門人に及ばざる事を傷んだのである。


諸子(ここに挙げた私の仲間達)は

ただ古人に及ばぬというだけで

一時代の俊傑である」


(註釈)


徐幹じょかん陳琳ちんりん応瑒おうよう劉楨りゅうていそして司馬朗しばろう

煌びやかな才を持つ

曹丕の文学仲間が

みんな217年の疫病で死んでしまった。


呉質ごしつは曹丕の四友のひとり、

曹丕は何かあるたび彼にこうして

本音や愚痴を打ち明けてたんだろうな。


曹丕もまた一流の文学者。


いろんな「滅び」を見てきたから

内政的な作風の現実主義者になったけど

だからこそ文学が持つ「永遠性」に

殊更強い憧れを抱いてる。



「痛知音之難遇」


は、

「音楽を知る者に遇う難しさを痛み…」

なのか

「音楽を知る者が難事に遇うを痛み…」

なのか、微妙にわからん。


前者かなやっぱ。

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