註四、司馬懿が来るまで待とう
註4.
魏略曰:儒字俊林,夏侯尚從弟。初為鄢陵侯彰驍騎司馬,宣王為征南將軍,都督荊、豫州。正始二年,朱然圍樊城,城中守將乙脩等求救甚急。儒進屯鄧塞,以兵少不敢進,但作鼓吹,設導從,去然六七里,翱翔而還,使脩等遙見之,數數如是。月餘,及太傅到,乃俱進,然等走。時謂儒為怯,或以為曉以少疑衆,得聲救之宜。儒猶以此召還,為太僕。
(訳)
「魏略」にいう、
夏侯儒は字を俊林といい、
夏侯尚の従弟である。
初めは鄢陵侯曹彰の驍騎司馬となり、
宣王が征南将軍、荊州・豫州の都督に任命した。
正始二年(241)、
朱然が樊城を囲むと
城中の守将の乙修らは
大至急の救援を要請した。
夏侯儒は進軍して鄧の塞に駐屯したが
兵が少ない事から敢えて進もうとせず
ただ鼓吹を作して
先導と従者を設置するのみで
朱然から去ること六から七里で
翱翔(旋回)して引き返してしまい
乙修らに遥かにこれを眺めさせ、
何度もこのような事をした。
一月余りで太傅(司馬懿)が至るに及んで
やっと倶に進軍し、朱然らは逃走した。
当時、夏侯儒は怯懦と言われたが、
少なきを以て多きを疑わせる事に
明るい、と見なす者もいた。
夏侯儒はなおこの手柄で召還されて
太僕となった。
(註釈)
曹叡が亡くなったあとに
孫権が攻め込んできた芍坡の戦役です。
晋書宣帝紀ですでにやりました。
「初為鄢陵侯彰驍騎司馬,宣王為征南將軍,都督荊、豫州」
「初為鄢陵侯彰驍騎,司馬宣王為征南將軍,都督荊、豫州」
↑もしかして、標点こうじゃないの?
「驍騎司馬」って役職聞いたことないし
「司馬宣王」なのかもしれない。
ちくまの註だと「宣王」の部分は
なにかの書き間違いであると断じています。
魏に宣王って諡の人いたっけ?
書き間違いでないとしたら
やっぱり司馬宣王って
司馬懿の事だと思うのですが……。
ところが、そのあとで司馬懿のこと
「太傅」と書いているので……
やっぱり違うのかな。
王の為に征南将軍を宣べて、宣揚して……
だと意味わからんし、謎です。




