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淡々三国志  作者: ンバ
魏書第十、荀彧伝
291/603

八、袁紹の死

8.

六年,太祖就穀東平之安民,糧少,不足與河北相支,欲因紹新破,以其間擊討劉表。彧曰:「今紹敗,其衆離心,宜乘其困,遂定之;而背兖、豫,遠師江、漢,若紹收其餘燼,承虛以出人後,則公事去矣。」太祖復次于河上。紹病死。太祖渡河,擊紹子譚、尚,而高幹、郭援侵略河東,關右震動,鍾繇帥馬騰等擊破之。語在繇傳。八年,太祖錄彧前後功,表封彧爲萬歲亭侯。


(訳)

六年(201)、

太祖は東平とうへい国の安民あんみん県の

穀物に有り付こうとしたが、

食糧は少なく、河北(袁紹軍)と

防ぎ合うには不足であった。


袁紹は敗戦の直後であり、

その間に劉表りゅうひょうを討伐しようと考えたが、

荀彧が言った。


「今袁紹が敗れたことで

その衆人の心は離れております。

宜しくその困苦に乗じ、

遂には平定するべきかと存じます。


逆にえん州・州に背いて

長江・漢水に遠征いたしますと、

もし袁紹が余勢の盡くを集め

(拠点が)空虚になっている事を

承知して、背後から出撃してきた場合は

則ち公の事業(の成功)は去ってしまいます」


太祖は再び黄河のほとりに宿営した。


(202年に)

袁紹が病死すると、太祖は渡河して

袁紹の子の袁譚えんたん袁尚えんしょうを攻撃したが、

高幹こうかん郭援かくえん河東かとうを侵略したために

関右かんゆうは震えおののいた。


鍾繇しょうよう馬騰ばとうらを率いてこれを撃破した。

この事は「鍾繇伝」にて語る。


八年(203)、

太祖は荀彧の前後の功績を記し、

上表して彼を万歳亭侯ばんざいていこうに封じた。


(註釈)


200年の官渡の戦いの翌年、

倉亭そうていの戦いがあります。


演義や北方三国志では、

伏兵を10連続で配置する

程昱ていいくの「十面埋伏の計」が炸裂しますが

正史ではかなり淡白な描写に留まり、

「倉亭で袁紹の軍を破った」程度しか

書かれていません。


翌年、失意の中袁紹が亡くなると

曹操は本格的に冀州へ打って出ましたが、

袁紹の子・袁尚は河東方面へ

高幹こうかん郭援かくえんを派遣します。


袁紹は息子たちに州を統治させて

能力を測っていたようなのですが、

この高幹も同様の待遇にしており、

かなりの期待を寄せられていた人物です。


高幹は関右軍閥の馬騰ばとう韓遂かんすいらと

内応するも、そこは鍾繇しょうようが踏ん張り

馬騰を説得して再び味方とします。


鍾繇指揮下のもとで

高幹・郭援と交戦したのが

かの馬超ばちょう龐徳ほうとくでした。


龐徳は郭援を見事に討ち取り、

馬超は負傷した足を袋で包んで

果敢に戦ったそうです。


高幹はいったんは降伏しましたが、

曹操が烏丸の征伐へ出かけた

その隙を狙って再び反乱を起こします。


この他にも沮授そじゅ審配しんぱいなど

曹操に降るをよしとせずに

袁家に殉じた臣もやはり一定数おりました。

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