一、長阪坡の駆け引き
関羽に続いて、もう一人の万人之敵
張飛伝をやります。
1.
張飛字益德、涿郡人也、少與關羽倶事先主。羽年長數歳、飛兄事之。先主從曹公破呂布、隨還許、曹公拜飛為中郎將。先主背曹公依袁紹・劉表。表卒、曹公入荊州、先主奔江南。曹公追之、一日一夜、及於當陽之長阪。先主聞曹公卒至、棄妻子走、使飛將二十騎拒後。飛據水斷橋、瞋目橫矛曰:「身是張益德也、可來共決死!」敵皆無敢近者、故遂得免。先主既定江南、以飛為宜都太守・征虜將軍、封新亭侯、後轉在南郡。
(訳)
張飛は字を益徳といい、涿郡の人である。
若くして関羽とともに先主に仕え、
関羽が数歳年長であったため
張飛は関羽に兄事した。
先主が曹公に従って呂布を撃破すると
許昌へ帰還するのに伴って
曹公は張飛を拝して中郎将に任命した。
先主が曹公に背いて
袁紹、次いで劉表を頼った。
劉表が卒すると曹公は荊州へ入り
先主は江南へ逃走した。
曹公はこれを追撃し、一昼夜をかけ
当陽の長阪で追い付いた。
先主は遂に曹公が至ったと聞くと
妻子を棄てて逃げ出し、
張飛ら二十騎に背後を防がせた。
張飛は川に拠って橋を落とし
目を見開き、矛を横たえて言った。
「我こそは張益徳である!!
死ぬ覚悟のある奴は向かって来い!!」
思い切って近寄ろうとする者は誰もおらず
故に(劉備は)難局を免れる事ができた。
先主が江南を平定し終えると
張飛は宜都太守・征虜将軍となり
新亭侯に封じられた。
後になって南郡に移った。
(註釈)
張飛、あざなは益徳。
三国志演義では、
「翼徳」というあざなです。
「翼《yì》」と「益《yì》」は音が似ている上、
諱が「飛」で字が「翼」ならば
あたかも関連性があるように見えるため
演義の著者が「益徳」の音だけ聞いて、
勘違いしてしまったのかもしれません。
中国は広いので、
同郷人に対する親しみが深いと
耳に挟んだことがあります。
劉備と張飛は同じ涿郡の出身者であり
自然と結びつきが強くなったのではないかと
考えると腑に落ちます。
若くして劉備に仕えた、とあるので
少なくとも張飛が10代の頃から
劉備や関羽とつるんでいたというのは
間違いないと思います。
また、関羽と張飛の二人は年齢不詳ですが
関羽のが数歳年長のようです。
(演義では、関羽162年生まれ
張飛は168年生まれに設定されてます)
張飛の前半生は特に見せ場なく
過ぎていきますが、
208年の曹操の荊州侵攻から
有名な長阪橋の大喝の場面に繋がります。
曹操に目と鼻の先まで迫られた劉備は
恥も外聞も妻子も捨て、とにかく逃げます。
殿軍を任された張飛は
劉備を逃がす時間を稼ぐために
ここで一計を案じます。
張飛は橋の上に立って退路を断ち
「かかってこい、命懸けで戦おう」
と宣うのです。
目をギラつかせて、威圧感たっぷりに。
「共」がポイントです。
お互いに命を懸けて。
「俺はタダでは死なん、お前らも道連れだ」
みたいなニュアンスを含んでます。
戦場でどんな敵が一番怖いかと言うと、
それは死兵です。
帰ることを一切考えていなかったり
降伏すれば命はないものと見て
決死の覚悟で抵抗してくる者が最も怖い。
故に孫子は、相手に
退路を残して希望を見せてやれ、
追い詰めすぎてはならないと語るのです。
張飛は実際に決死の覚悟で
こんな台詞を言っているのではなく
自身を死兵に見せかけることで
曹軍を牽制したのだと思います。
漫画、蒼天航路では
曹操と張飛の笑い話として残る
ハンドサインのやり取りが
この長阪橋の場面で再現されてます。




