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淡々三国志  作者: ンバ
魏書第十、荀彧伝
287/603

註九、厳象と韋康

註9.

三輔決錄曰:象字文則,京兆人。少聦博,有膽智。以督軍御史中丞詣揚州討袁術,會術病卒,因以爲揚州刺史。建安五年,爲孫策廬江太守李術所殺,時年三十八。象同郡趙岐作三輔決錄,恐時人不盡其意,故隱其書,唯以示象。康字元將,亦京兆人。孔融與康父端書曰:「前日元將來,淵才亮茂,雅度弘毅,偉世之器也。昨日仲將又來,懿性貞實,文愍篤誠,保家之主也。不意雙珠,近出老蚌,甚珍貴之。」端從涼州牧徵爲太僕,康代爲涼州刺史,時人榮之。後爲馬超所圍,堅守歷時,救軍不至,遂爲超所殺。仲將名誕,見劉邵傳。


(訳)

三輔決録さんぽけつろくにいう、

厳象げんしょうは字を文則ぶんそくといい、京兆けいちょうの人である。


少くして聡明・博学であり

胆力と叡智を有していた。


督軍とくぐん御史ぎょし中丞ちゅうじょうとして

袁術の討伐のために揚州を詣でたが

ちょうど袁術が病気で卒し、

それにより揚州刺史となった。


建安五年(200)、

孫策が任命した廬江ろこう太守の

李術りじゅつに殺害される所となり、

この時、三十八歳であった。


厳象と同郡の出身の趙岐ちょうき

三輔決録を作ったが、

当時の人々がその意味の全てを

理解できないのではないかと恐れたために

この書物を隠し、厳象だけに見せたという。


韋康いこうは字を元将げんしょうといい、

彼もまた京兆の人である。


孔融こうゆうは、韋康の父の韋端いたん

書状を与えて述べている。


「先日、元将が参りましたが

深淵なる才覚が見事に輝き、

もとより度量が広く意気軒昂。

世に並外れた器であります。


昨日、今度は※仲將ちゅうしょうが参りましたが

(※韋康の弟の韋誕いたん

麗しき性質を有して貞実、

言葉遣いは愍然として真心は篤く、

一家の主を保てましょう。


※ドブ貝から二つも真珠が生まれるとは

思いもよりませんでした。


(※老蚌生珠ろうぼせいしゅ=ドブ貝が真珠を生む。

ふつうの親から

優れた子供が生まれるたとえ)


甚だ珍貴なことですな」


韋端は涼州牧に従いて太僕たいぼくとなり、

韋康は代わって涼州刺史となったが

当時の人々はこれを栄誉な事とした。


その後、韋康は馬超ばちょうに攻囲されて

しばらくの間堅守したものの

救援の軍が至らずに、

とうとう馬超に殺されてしまった。


仲将は名を誕といい、

劉邵りゅうしょう伝に見える。



(註釈)

わたくしといふ厳象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です。

(伝家の宝刀、言いたいだけ



韋誕いたん仲将ちゅうしょう」って、

何かと語感似てるなあと思ったら

アレだ、伊丹いたみ十三じゅうぞうですね。


トンビが鷹を生んだのう!!

と手紙でやり取りしてるあたり

孔融と韋端が、気心の知れた

仲である事が伝わってきます。


韋康については

蜀署の馬超の記事にも見えます。


厳象は、孫権を茂才もさいに推挙してくれたのち

孫策の任命した廬江ろこう太守の

李術に殺害されたとあります。


李術は曹操サイドが任命した

揚州刺史を殺した事になるので

孫権はこの事を曹操へ訴え、

孤立無援の状態にした上で

李術を討ち取ったとされます。


また、魏の于禁うきんや呉の呉範ごはん

厳象同様に「文則」という字です。

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