註三、恩人蘇飛
註3.
吳書曰:寧將僮客八百人就劉表。表儒人,不習軍事。時諸英豪各各起兵,寧觀表事勢,終必無成,恐一朝土崩,并受其禍,欲東入吳。黃祖在夏口,軍不得過,乃留依祖,三年不禮之。權討祖,祖軍敗奔走,追兵急,寧以善射,將兵在後,射殺校尉凌操。祖旣得免,軍罷還營,待寧如初。祖都督蘇飛數薦寧,祖不用,令人化誘其客,客稍亡。寧欲去,恐不獲免,獨憂悶不知所出。飛知其意,乃要寧,爲之置酒,謂曰:「吾薦子者數矣,主不能用。日月逾邁,人生幾何,宜自遠圖,庶遇知己。」寧良久乃曰:「雖有其志,未知所由。」飛曰:「吾欲白子爲邾長,於是去就,孰與臨阪轉丸乎?」寧曰:「幸甚。」飛白祖,聽寧之縣。招懷亡客并義從者,得數百人。
(訳)
呉書にいう、
甘寧は僮客(召使い・舎弟)
八百人を率いて劉表に就いた。
劉表は儒者であり、
軍事に習熟していなかった。
当時、諸々の英傑が
それぞれ挙兵していたが、
甘寧は劉表の仕事ぶりや
その勢いを観察して、最終的には
絶対に成功し得ないと感じ、
いち王朝が土崩する事に併せて
その禍が自分にも降りかかる事を恐れ、
東行して呉へ入国しようとした。
黄祖が夏口に在ったため
(甘寧の)軍は通過する事ができず
かくて、その場に留まって
黄祖に依拠する事になったが、
三年間、礼遇される事がなかった。
孫権が黄祖の討伐に向かうと
黄祖軍は敗れて奔走し
追撃の兵が迫って来た。
甘寧は射を善くする事から
将兵の後方(殿軍)におり、
校尉の凌操を射殺した。
黄祖は(追撃を)免れ、
軍を引いて陣営に帰還出来たのであるが
それでも、甘寧への待遇は
初めと同様のものであった。
黄祖の都督の蘇飛は
たびたび甘寧を推薦したが、
黄祖が用いることは無く、
人に命じて甘寧の食客を勧誘させ
甘寧の客分は次第に減っていった。
甘寧は去ろうとしたが、
逃げられないであろう事を恐れ、
独りで憂悶して
どうする事も出来ずにいた。
蘇飛は甘寧の意図を知ると
そこで甘寧を迎え
置酒(酒盛り)をして、言った。
「吾は、子(甘寧)を幾度か推薦したが
主(黄祖)は用いる事が出来ぬ。
日月は逾邁(どんどん過ぎて)、
人生は幾ばくもない。
(ここで不遇を託っているよりは)
自ら遠方を図り、知己に
巡り会うことを庶幾うべきだ」
甘寧は良久してから、言った。
「その志はあるのだが、
どうしていいかわからぬのだ」
蘇飛は言った。
「吾が、子を
邾県の長になれるように上言しよう。
さすれば、去就いずれも、
阪に臨んで丸を転がすように
(簡単に)なるだろう?」
甘寧は言った。
「幸甚である(ありがてぇ!!)。」
蘇飛は黄祖に言上すると
甘寧が邾県に之く事が聴き届けられた。
甘寧は、去って行った食客らを招来し
義従の者と併せて、数百人を得た。
(註釈)
194年に荊州へ逃げてきた? 甘寧。
その後、いつから
劉表に仕えてるかは不明ですが
203年には黄祖の指揮下で
孫権と戦っており、その直前に
「3年間礼遇されなかった」とあるので
黄祖のとこに来たのは200年頃?
すると、甘寧が劉表に
見切りをつけたのも200年頃?
この頃、孫策が揚州を
ほぼ制圧していた時期なので
東呉に向かおうとする流れは自然ですが、
孫策が死んで情勢が混乱した。
「やっぱりもう少し様子見よ」
と思っただけかもしれません。
黄祖は、この場面で
甘寧を取り立てなかったことで
一般的な評価が低くなっています。
なんといっても「呉書」なので、
かなり甘寧寄りの描写になってる筈です。
甘寧が凌操を射殺したことと
黄祖が撤退できたことに
そこまで強い因果関係はなかった。
趙雲も言っています。
「負け戦なのになぜ褒賞があるのですか?」
甘寧が取り立てられないことは
別に変なことじゃありません。
そもそも、
益州でやられて逃げてきた甘寧に
800人ものファミリーを
養う甲斐性があったのだろうか。
これも、黄祖が甘寧の軍団を
自分のものにしちゃったという
彼のセコさを強調するためだけに
作られた設定のように感じます。
飼い殺しにされていると感じて
自分の境遇を呪う甘寧でしたが
黄祖軍閥の幹部らしき
蘇飛は、甘寧を高く評価していました。
甘寧に同情して
蘇飛がかけたこの言葉。
「興覇さん、時間はどんどん過ぎる。
人生は幾ばくもない……」
仮にも甘寧が若かったら、
こんなセリフが出てくるとは思えません。
やはり甘寧は、ロートル武将なのか……??
黄祖がなかなか使ってくれないのも
単純に甘寧が老いてるからかも。
そして、蘇飛の口利きで、
甘寧は邾県の長になり
進むも引くも自由の身となりました。
完全に、孫権の味方になる前提で
書かれてる気がします。




