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淡々三国志  作者: ンバ
呉書第九、魯粛伝
251/603

二、劉曄か、周瑜か

2.

劉子揚與肅友善,遺肅書,曰:「方今天下豪傑並起,吾子姿才,尤宜今日。急還迎老母,無事滯於東城。近鄭寶者,今在巢湖,擁眾萬餘,處地肥饒,廬江間人多依就之,況吾徒乎?觀其形勢,又可博集,時不可失,足下速之。」肅答然其計。葬畢還曲阿,欲北行。會瑜已徙肅母到吳,肅具以狀語瑜。時孫策已薨,權尚住吳,瑜謂肅曰:「昔馬援答光武云『當今之世,非但君擇臣,臣亦擇君』。今主人親賢貴士,納奇錄異,且吾聞先哲秘論,承運代劉氏者,必興於東南,推步事勢,當其歷數,終構帝基,以協天符,是烈士攀龍附鳳馳騖之秋。吾方達此,足下不須以子揚之言介意也。」肅從其言。瑜因薦肅才宜佐時,當廣求其比,以成功業,不可令去也。


(訳)

劉子揚(劉曄)は

魯粛とは友人として親善であり、

魯粛に書を遣わして述べた。


「まさに今

天下の豪傑が並び立っているが、

きみの資質や才覚は

尤も今日(こうした混乱の情勢)に

適っているものだと思う。


すぐに還って老母を迎え

東城に滞在する事の無きよう。


近郊の鄭宝ていほうという者が今巣湖におり、

一万余りの衆を擁して

根拠地は肥沃であるから、

廬江の間の人々の多くは

彼を拠り所としている。


況してや、我々が

無駄にしておいてよいものか。


その形勢を観察するにまた

博く人物を集められよう。


時は失ってはならぬもの、

足下も速やかに江南へ」


魯粛は劉曄の計に賛同し、答えた。


(祖母の)葬儀を終えると

曲阿へ戻り、北行しようとした。


ちょうど周瑜が、魯粛の母を

徙して呉へと到達した後で、

魯粛は具に周瑜に現状を語った。


当時、孫策は已に薨去していたが

孫権はなお呉に居住していた。


周瑜は魯粛に対して述べた。


「昔、馬援ばえん

光武帝に答えてこう言っていた。


『今の世は、ただ

主君が臣下を選ぶのではなく

臣下もまた主君を選ぶのです』と。


今、主人(孫権)は

賢者に親しみ、士を貴び、

奇異(非凡な者)を納れて

取り纏めております。


なおかつ、吾の聞くところによれば

先の時代の賢哲が密かに論じた、

『天運を承けて劉氏に代わる者は

必ずや東南に於いて興る』という説は

事態の趨勢を推步すいほ(天文占い)

してみると、その暦数に当たり

終には(江南の)帝業の基盤を構えて

天の符瑞に叶い、まさしく今こそ

烈士が挙げて※攀龍附鳳はんりょうふほう

(※龍にすがりつき鳳凰につかまる。

忠良な臣下が英主に付き従うたとえ)

馳騖ちぶ(駆け回り活躍)する秋であります。


吾はまさに、この結論に

達したところなのであります。

足下も、劉子揚の言など

意に介することのなきように」


魯粛は周瑜の言葉に従った。


周瑜はそうして、魯粛の才能が

時勢を補佐するのに適しているとして

魯粛に比す者を広く集めて功業を成し、

彼を逃すべきではない、と推薦した。


(註釈)


劉曄りゅうようはあざなを子揚しようといい、

光武帝の由緒正しい子孫で魯粛の友人。

孫策の最初の餌食になった劉繇りゅうようとは

名前が紛らわしいですが、別人です。


劉備の蜀取りの成功を予言したり

曹叡が即位した時に

「始皇帝・漢武帝に似てる」と称すなど

先見性に定評のある人物ですが、

200年代初頭の時点ではまだ流石に

孫権株がこれから上がる事に気付いてません。


劉曄は手紙の中で

魯粛の母について言及していますが、

母親はちゃんと存命していたのですね。


父を亡くしたあと、

魯粛はなぜ母ではなく

祖母と暮らしていたのでしょうか?


何も書かれていないので

あれこれ想像するしかありません。


「周瑜が魯粛の母を呉に移して……」


これは周瑜の判断なのか

魯粛の依頼かはわかりませんが、

母親を危険な場所から

避難させていたと解釈するのが

妥当なところでしょうか。


周瑜が、孫策と魯粛

2人のオカンの面倒を見ているあたり

将来性のある人物への懐柔策なのかな?


一緒に住んでいた「祖母」は

父方の祖母だと考えられるので

実は「老母」よりも若かったとか。

足腰の弱い方を優先して避難させた。


つまり……魯粛の父ちゃんは

実は熟女好きだったんだよ!!

(マガジン歴史ミステリー調査団



「無事滯於東城」のところは


「東城に滞在する事の無いように」

と訳しましたが


「事を起こさずに東城に滞在してなさい」

と、正反対の意味かもしれません。


手紙の最後に、

「君も早く江東へ行け!」と行ってるので

前者の訳のが適切だとは思うんですが……。



馬援ばえんは馬超のご先祖様で

光武帝の功臣のひとりです。


当初は隴西の隗囂かいごうに仕え、

隗囂は、蜀の公孫術こうそんじゅつ

中原に拠る劉秀りゅうしゅう(光武帝)の間で

趨勢を窺っていました。


そんな中、馬援は

公孫術と劉秀の陣営に

使者(偵察)として派遣されますが、


馬援と旧知の仲だった公孫術は

彼のことを警戒しており、

反対に面識のない劉秀は

無警戒で馬援のことを迎えました。


このとき、馬援が公孫術を称した言葉が

かの「井の中の蛙」でした。


馬援が、

ゆったりと構えている劉秀に対して


「やたらと無防備ですけど、

私が刺客だと思わないんですか?」


と訊ねれば、劉秀は


「だって、君は

『刺す方の客』じゃなくて

『説く方の客』だと思ったからさ♪」


と、ダジャレで返したといいます。


馬援は実際に劉秀と話してみて

彼の器の大きさを感じ取り、

高祖・劉邦の風格が備わっていると

手放しの賛辞を送りました。


昔馬援答光武云『當今之世,非但君擇臣,臣亦擇君』。


昔馬援が光武帝の言葉に答えて

「今の世は、ただ

主君が臣下を選ぶのではなく

臣下もまた主君を選ぶのです」

と言った。


とあるのは、ここの問答です。

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