十四、孫権の采配
14.
瑜兄子峻,亦以瑜元功為偏將軍,領吏士千人。峻卒,全琮表峻子護為將。權曰:「昔走曹操,拓有荊州,皆是公瑾,常不忘之。初聞峻亡,仍欲用護,聞護性行危險,用之適為作禍,故便止之。孤念公瑾,豈有已乎?」
(訳)
周瑜の兄の子の周峻もまた
周瑜の元の功績によって偏将軍となり、
吏人・士卒千人を領有した。
周峻が卒すると、
全琮は周峻の子の周護を
将軍に任命するよう上表した。
孫権は言った。
「昔日に曹操を敗走させ、
荊州を切り拓いて所有出来たのは
すべて公瑾の手柄であり、
片時もそれを忘れた事はない。
初めは周峻が亡くなったと聞いて
そのまま周護を(後継の将として)
用いるつもりでおったのだが、
聞けば、周護は性格や行いが危険で
彼を用いれば、却って禍を招くと思い
故に任官は取りやめた。
孤は公瑾を今も思慕している、
(だからといって)どうして已めようか?」
(註釈)
孫権の考えもわかるんですよ。
呉には武将が亡くなった場合、
その子弟が兵権を受け継ぐ
襲兵制というのがありますが、
封邑とか領地までも
継承されちゃうシステムみたいなのです。
周瑜の能力ありきで与えてた任地を
優秀かどうかもわからない子弟に
はい、どーぞ♪と与えるわけにはいかんのです。
(単純に周家を警戒し、やんわり
排除に動いてるだけかもしれませんが)
呉は地方豪族の連合政権なので
孫権はそのボス格といっても
発言力がそこまであるわけではなく、
言いたいことを言えるようになるのは
皇帝に即位してから、後のイメージです。
呉の成立史はそのまんま
孫権の支配権の確立の過程って感じで。
やりたい事をやれるようになってからは
孫権の持ち味の粘り腰やバランス感覚が
スポイルされたような印象を受けます。
言いたいことをガマンして
じっくり作戦練ってた時の方が
遥かに優秀だったというのは
皮肉なものです。
最後に、個人的な周瑜評です。
戦闘 ★★★★★★★★★ 9
〜周瑜の生涯戦績〜
○当利口(VS張英)
○横江津(VS樊能・于糜)
○秣陵(VS薛礼)
○県南(VS笮融)
○湖孰(VS劉繇?)
○江乗(VS劉繇?)※しばし孫策と別行動
○皖城(VS劉勲?)※小喬との婚姻
○尋陽(VS劉勲)
○江夏(VS黄祖)
○豫章(VS???)
○廬陵(VS???)
○麻屯(VS???)
○保屯(VS???)
○柴桑(VS鄧龍)
○江夏(VS黄祖)
○赤壁(VS曹操)
○南郡(VS曹仁)※脇腹に深手を負う
17戦17勝無敗
出ましたパーフェクトレコード。
相手が弱いんじゃないの?
と思いましたが、
曹操・曹仁・黄祖が入ってるので
フロックではありません。
数の上では圧倒的に不利だった
赤壁の戦いを勝利に導いた功績は
あまりにも多大、三国時代の
ターニングポイントです。
★10は曹操と司馬懿です。
周瑜は実働年数の短さから
1つ減らしました。
・戦略 ★★★★★★★★★ 9
赤壁の戦況分析にその片鱗が垣間見えます。
「曹操の威勢に皆が怯える中、
周瑜と魯粛だけが毅然と見通しを立て
人々に抜きん出た存在感を示したのは
本当に彼らの才覚が、桁違いだったから」
というのが陳寿の評価です。
劉備の危険性にも
周瑜が誰より早く気付いてました。
死の直前に彼の思い描いていた、
関中や益州まで視野に入れた
天下二分の計は──常人に
考えつくものではないように思います。
周瑜に高評価を寄せている人物も
曹操・劉備・孫権・魯粛など
一流どころばかり。
文句の付けどころが無いです。
・内政 ★★★★★★ 6
戦闘の記述は目覚しいものばかりですが
内政は何かやったっけ……?
200〜208年の
記述スカスカ期間で
何かしらやってたんでしょうけど。
治績を挙げた様子が特にないので
ここは余り高い評価になりません。
・人格 ★★★★★★★★★ 9
美男子、人望あり、義理堅い、寛大、
江表伝の周瑜アゲっぷりを考慮せずとも
素晴らしい人格者だと思われます。
何か欠点を探そうとはしましたが
特にありませんでした。
孫権と仲悪かった?
というのは、根拠に乏しく
飽くまで推測の域を出ないです。
三國志Ⅲでは、総合能力において
周瑜が全武将中1位でしたが、
こうして列伝を読んでみると納得がいきます。
孫策と仲が良く、
兄の死後、震える孫権の肩を叩いて
君臣の義を示し、戦においては常勝無敗、
赤壁の戦役で歴史を変えるも
直後に病没してしまった
美しき呉のエース、周瑜伝でした。




