十二・十三、子孫の処遇
12.
瑜少精意於音樂。雖三爵之後,其有闕誤。瑜必知之,知之必顧,故時人謠曰:「曲有誤,周郎顧。」
(訳)
周瑜は少くして音楽に精通していた。
三度爵を呷った後であっても
曲に闕誤(誤り)が有れば、
周瑜は必ずそれに気付いて
気付けば必ず振り返った。
故に、当時の人はこのように謡った。
「曲に誤りが有れば、周郎が顧みるぞ」
(註釈)
優れた音感を持っているようです。
13.
瑜兩男一女,女配太子登。男循尚公主,拜騎都尉,有瑜風,早卒。循弟胤,初拜興業都尉。妻以宗女,授兵千人,屯公安。黃龍元年,封都鄉侯,後以罪徙廬陵郡。赤烏二年,諸葛瑾、步騭連名上疏曰:「故將軍周瑜子胤,昔蒙粉飾,受封為將,不能養之以福,思立功效,至縱情慾,招速罪辟。臣竊以瑜昔見寵任,入作心膂,出為爪牙,銜命出征,身當矢石,盡節用命,視死如歸。故能摧曹操於烏林,走曹仁於郢都,揚國威德,華夏是震,蠢爾蠻荊,莫不賓服。雖周之方叔,漢之信、布,誠無以尚也。夫折沖扦難之臣,自古帝王莫不貴重,故漢高帝封爵之誓曰『使黃河如帶,太山如礪,國以永存,爰及苗裔』。申以丹書,重以盟詛,藏於宗廟,傳於無窮,欲使功臣之後,世世相踵,非徒子孫,乃關苗裔,報德明功,勤勤懇懇,如此之至,欲以勸戒後人,用命之臣,死而無悔也。況於瑜身沒未久,而其子胤降為匹夫,益可悼傷。竊惟陛下欽明稽古,隆於興繼,為胤歸訴,乞丐餘罪,還兵復爵,使失旦之雞,復得鳴。抱罪之臣,展其後效。」權答曰:「腹心舊勳,與孤協事,公瑾有之,誠所不忘。昔胤年少,初無功勞,橫受精兵,爵以侯將,蓋念公瑾以及於胤也。而胤恃此,酗淫自恣,前後告喻,曾無悛改。孤於公瑾,義猶二君,樂胤成就,豈有已哉?迫胤罪惡,未宜便還,且欲苦之,使自知耳。今二君勤勤援引漢高河山之誓,孤用恧然。雖德非其疇,猶欲庶幾,事亦如爾,故未順旨。以公瑾之子,而二君在中間,苟使能改,亦何患乎!」瑾、騭表比上,朱然及全琮亦俱陳乞,權乃許之。會胤病死。
(訳)
周瑜には二男一女があり、
娘は太子の孫登に配偶された。
男子の周循は公主(孫魯班)を娶り、
騎都尉に拝され、周瑜の風格を有したが
早逝してしまった。
周循の弟の周胤は、
初め興業都尉に拝された。
宗族の娘を妻帯し、
兵千人を授かり、公安に駐屯した。
黄龍元年(229)、都郷侯に封じられ、
後に罪によって廬陵郡に移された。
赤烏二年(239)、諸葛瑾と歩騭が
連名にて上疏して述べた。
「もとの将軍周瑜の子の周胤は、
昔、粉飾(身の丈以上の寵恩)を蒙りて
封爵を受け将軍と為りましたが、
封邑を養う事を福とし、功を立てる事に
思いを巡らす事が出来ずに、
情欲により欲しいままに振る舞って
罪刑を招き寄せてしまいました。
臣どもが窃かに思いますに、
周瑜は昔日、寵恩に預かりて任を受け、
内に入っては股肱心膂、
外に出ては爪牙と為り、
御命令を奉じて出征すると
躬ら矢石を冒さんと(前線に立ち)
忠節を尽くして御命を遂行し
死すらも顧みませんでした。
故に、曹操を烏林に於いて摧き、
曹仁を郢都に於いて敗走させる事が叶いまして
国家の威徳を揚げ、華夏(中原)を
斯様に震え上がらせ、
蠢動しつつあった荊州の蛮族も
賓服せぬものは莫かったのです。
周の方叔、漢の英布・韓信と雖も
誠に周瑜以上とは申せませぬ。
そもそも、古の帝王は自ずから
敵を挫き、艱難を除く臣下を貴び
重んじぬ事はございませんでした。
故に漢の高帝(劉邦)は
封爵の際に誓って、このように宣ったのです。
『黄河が帯の如くとなり、
太山(泰山)砥石の如くとなろうとも
国は永らく存続し、苗裔にまで及ばんことを』
この言葉を朱によって書き付けて
重き詛盟を為し、宗廟に藏めて
無窮(永遠)に後世へと伝えられましたのは、
功臣の後裔が代々それを相受け継ぎ、
子孫の徒にあらずとも、苗裔に関わる者まで
それを及ぼそうとしたものであり、
徳に報い、功勲を明らかにする事が
これほどまで謹直にして懇ろに至ったのは、
そうする事で、後代の人々を戒め励まし、
御命を奉じた臣下が、死した後も
悔いの無きようにしたものなのでございます。
況してや、周瑜が身罷ってから未だ間もなく
その子の周胤を降格させ、匹夫と為される事は
ますます傷悼すべきことでございます。
窃かに愚考しますに
陛下には、御明哲にて稽古され
(功臣の)後継者を興隆させられて
周胤の訴え、その余罪の
釈明をお聞きになられて、
再度彼に兵を返還され、爵位を戻されて
夜明けを告げる事に失した鶏を今一度鳴かせ、
罪を抱えた臣下が、後にその功を
展べられるようにしてくださいませ」
孫権は答えて述べた。
「腹心としての旧くからの勲功、
孤とともに事業を協同した事──
公瑾のこうした功績を、忘れるわけがない。
昔、周胤が年少で功労の無かった当初、
不相応な精兵を授けて
侯の爵位と将軍の任を委ねたのは、
蓋し公瑾を思慕し、周胤にも
(父親に対する敬意や遺風を)
及ばさんと考えてのものであったのだ。
しかし、
周胤はそれを恃んで酒や淫佚に耽り、
自ずから勝手気儘に振る舞って、
孤が前後に渡って諭しても
悔い改めることがまるで無かった。
孤の公瑾に対する思いは
二君(諸葛瑾・歩騭)と同様であり、
周胤が成就することを楽しみにしこそすれ、
どうして(彼に対する罰を)已められようか?
周胤の罪悪を圧迫し
すぐに戻そうとせぬのは、
しばしの間、彼を苦しませることで
(父の遺風に泥を塗っているという)
自覚を持ってもらおうと考えただけだ。
今、二君は彼を弁護せんと勤めに勤め
漢の高祖の河山の誓いを引用したが、
孤は、それを聞いて慚愧の念に堪えない。
孤の徳は高祖の範疇に及ばぬとはいえ、
それでも※庶幾せんと欲しているが
(※目標に近づく)
事情がまたこの通りであるから、
いまだに順えぬだけなのだ。
公瑾の子であるし、しかも
二君が間に立ってくれた。
苟も(もしも)
(周胤の横柄な態度が)改められれば
また何を患うことがあろう!」
諸葛瑾と歩騭の上表文はかくて献上され
朱然および全琮もまた
揃って赦免の陳情をしたため、
孫権はようやく周胤を許した。
ちょうど、周胤は病死した。
(註釈)
周瑜の子供は3人いましたが、
いずれも早逝してしまっています。
長男の周循は
孫権の娘の孫魯班を娶りましたが、
孫権が帝位に即いた頃(229)には
既に亡くなっていたようです。
長女の周姫は、225年に
孫権の皇太子の孫登に配偶されました。
孫登はこの時17歳。
周姫は周瑜の3人の子の中では
最も年少のようなので、当時
16〜22歳くらいだったと推測されます。
その後は特に書かれていませんが、
孫権が孫登の妃を探す逸話があり、
周姫は離縁したか早逝したものと思われます。
次男の周胤も、
孫氏の娘を娶り、期待をかけられましたが
罪を犯して平民に落とされてしまいます。
孫権は、孫策アニキの子供達にも
高すぎる爵位を与えていないので
周瑜の子供だからといって
そこまで特別扱いはしないという
方針を執っている印象です。
それとも…………
やはり周瑜のことを内心では
腫れ物扱いしていたか。
諸葛瑾と歩騭
「周胤は周瑜の息子です、
どうかご慈悲を……」
孫権
「ちょっと待てよ、
公瑾のことを忘れるわけないだろ?
周胤のバカタレは
父親の功績にあぐらをかいて
素行が悪かった、だから
反省してもらおうと思っただけだよ。
俺だって、あいつに
一人前になって欲しいっつーの」
なんだか、孫権のセリフが
体良く取り繕った
言い訳っぽく聞こえるような。
諸葛瑾と歩騭だけでなく、
朱然と全琮も周胤弁護に動いて
孫権はやっと周胤を許しました。
が、タイミング悪く周胤は病死。
孫権の娘の孫魯班は、
前夫の周循と死別したのち
全琮に嫁いでいました。
なので、周胤は
かつての義理の弟に当たるわけです。
魯班が一生懸命
「あの子を助けてあげてー!!」って
全琮に迫ったんじゃないかなぁ。
魯班、昔は大嫌いでしたが
今はむしろ好きです。
結局周胤は病死してしまい、
周瑜の直系は途絶えてしまいました。
周瑜の死から30年経ってるので
周胤はそれなりの年齢だった筈なのに
子供の記録がないのはおかしいですね。
孫権に消されたのではと勘繰っちゃう。




