六、天が授けた周公瑾
200年、
天下分け目の官渡決戦で
大勢を覆して袁紹に勝利した曹操は、
207年までにその残党を掃滅し
中原をほぼ完全制覇。
ついに南方へ目を向けます。
荊州牧・劉表は寿命を迎え
荊州はあっさり無血開城。
劉備は逃げて、魯粛経由で
孫権と同盟を組むことに……。
かくて迎える赤壁前夜。
曹操の強勢を前に
降伏論を唱える群臣たちに
周瑜が待ったをかける名場面です。
6.
其年九月,曹公入荊州,劉琮舉眾降,曹公得其水軍,船步兵數十萬,將士聞之皆恐。權延見群下,問以計策。議者咸曰:「曹公豺虎也,然託名漢相,挾天子以征四方,動以朝廷為辭,今日拒之,事更不順,且將軍大勢可以拒操者,長江也。今操得荊州,奄有其地。劉表治水軍,蒙沖鬥艦,乃以千數,操悉浮以沿江,兼有步兵,水陸俱下。此為長江之險,已與我共之矣。而勢力眾寡,又不可論。愚謂大計不如迎之。」瑜曰:不然。操雖託名漢相,其實漢賊也。將軍以神武雄才,兼仗父兄之烈,割據江東,地方數千里,兵精足用,英雄樂業,尚當橫行天下,為漢家除殘去穢。況操自送死,而可迎之耶?請為將軍籌之:今使北土已安,操無內憂,能曠日持久,來爭疆場,又能與我校勝負於船楫,可乎?今北土既未平安,加馬超、韓遂尚在關西,為操後患。且捨鞍馬,仗舟揖,與吳越爭衡,本非中國所長。又今盛寒,馬無蒿草。驅中國士眾遠涉江湖之間不習水土,必生疾病。此數四者,用兵之患也,而操皆冒行之。將軍擒操,宜在今日。瑜請得精兵三萬人,進住夏口,保為將軍破之。權曰:「老賊欲廢漢自立久矣,陡忌二袁、呂布、劉表與孤耳。今數雄已滅,惟孤尚存,孤與老賊,勢不兩立。君言當擊,甚與孤合,此天以君授孤也。」
(訳)
その年の九月、
曹公が荊州へと入ると
※劉琮は衆を挙げて降伏してしまい、
(※劉表の遺児)
曹公は荊州の水軍及び
船・歩兵の数十万を得た。
将士はこれを聞いて、皆恐懼した。
孫権は配下の者を呼び寄せて見え、
(曹操に対しての)計策を問うた。
論者は皆こう述べた。
「曹公は豺狼ではありますが
漢の宰相としての名望に託け、
天子を挟んで四方を征服し
『朝廷の為の行動である』と宣言しており
今日これを拒んでしまえば
事態は更なる逆境に置かれます。
かつ、将軍を大勢たらしめ
曹操を阻止し得たのは、
長江があったればこそ。
ですが今曹操は荊州を得て、その地を
奄有(そっくり所有)しております。
劉表は水軍を整え、
蒙沖・鬥艦(駆逐艦・軍艦)
は数千にも登りましたが、
曹操はその悉くを長江沿いに浮かべ、
同時に歩兵も繰り出して
水陸から一斉に下ってきましょう。
こうなってしまえば、長江の険を
彼我ともに共有する事になります。
さらに、勢力の衆寡もまた
論ずるに値しませぬ。
愚考しますに、
大局を計りますれば
曹操を迎え入れるに
越した事はございませぬかと……」
周瑜が言った。
「そうではありません。
曹操は漢の宰相の名望を
口実にしてはおりますが、
その実は漢賊にございます。
将軍(孫権)は
神の如き勇武と雄略とを持たれ
更に御父上・御兄上の功烈を拠り所に
江東に割拠され、その地は数千里、
兵は精鋭で用を成すに足り、英雄は
その事業の達成を願っておりますから
なお天下を横行し、漢家のために
残穢(曹操)を除き去るべきです。
況してや曹操は、自らを
死地に送り込んで参りましたのに
これを迎え入れる必要などありますか?
将軍のためにこの事態を
謀ることをお許しくだされば、
たとえ今、北方の地が既に安定し
曹操に内憂無く、曠日持久して
戦場に至りて争う事ができたとしても、
その一方で、我々と船上で勝負を
比校(比較)するなど、出来ましょうか?
今、北の地はいまだ安定しておらず
加えて馬超・韓遂がなお関西に健在で
曹操の後患となっております。
かつ、鞍馬を捨てて舟揖に乗り
呉・越に勝負を仕掛けることは
もとより中原の者の
長ずる所ではございません。
また、今は厳冬で
馬にまぐさもありません。
中原の士衆を駆り立てて、遠く
江湖の間まで渉らせておりますが
彼らは江水の風土に慣れておらず、
必ずや疫病が発生しましょう。
これらのいくつもの要因は
用兵の患となる所でございますが
しかるに曹操は、その全てを冒して
行軍しているのです。
将軍が曹操を擒となさるのは
まさに今日、この時なのでございます。
瑜に精兵三万人をお授けくだされば
夏口まで進軍し、将軍のために
曹操を撃破する事を保証いたします」
孫権は言った。
「老賊《曹操》が漢を廃し
自立しようとして久しい。
やつが憚っていたのは
二袁(袁紹・袁術)、呂布、
劉表、そして孤だけである。
今となっては
その何人かの群雄も既に滅び
孤だけがなお健在だ。
孤と老賊の勢力は、並び立たず。
君(周瑜)がやつを撃たんと
言ってくれた事は
まさに孤の考えと一致しており、
これは、天が君を
孤に授けてくれたという事だ」
(註釈)
さすがは周瑜、
曹操軍の弱点・憂患をほぼ完璧に
把握しているように思えます。
馬超と韓遂は実際に
赤壁の2〜3年後くらいには
曹操に反逆してますし、
中華大陸には
「南船北馬」という言葉があるように
平地の多い北部は馬で
河川の多い南部は船で
移動するのが一般的とされてきました。
「曹操がいかに強かろうが
不慣れな水上戦で
俺たちに敵うわけないでしょ」
と、ものすごい自信の程が窺えます。
三国志演義でも
赤壁の戦い前後は前半の山場となっており
名場面の暴風雨状態です。
★新野にて曹仁の八門金鎖の陣を破る徐庶
★博望坡にて夏侯惇を破る孔明
★趙雲の長阪一騎駆け
★二喬を狙う曹操
★呉の群臣を説き伏せる孔明
★黄蓋の苦肉の計
★十万本の矢を集める孔明
★龐統の連環の計
★龐統の計を見破る徐庶
★東南の風を起こす孔明
★蔡瑁を謀殺する周瑜
★敗走中に張飛や趙雲に要撃される曹操
★華容道にて関羽が曹操を逃がす
など、いずれも創作、
もしくは註釈から発想を得て
翻案された逸話ですが、
正史三国志には、
「周瑜・程普・劉備が
曹操軍を赤壁に破った」とか、
「黄蓋が曹操軍に火を放った」とか、
「曹操軍は疫病が蔓延して
撤退を余儀なくされた」とか、
そのくらいしか書かれてません
が、魯粛と周瑜の二人が
孫権に開戦を踏み切らせたのは
間違いない感じです。
演義の周瑜と諸葛亮は、お互いに
火攻めによって曹軍を討つ方向で
意見が一致していたとされます。




