四・五、孫策の死、赤壁直前まで
4.
五年,策薨。權統事。瑜將兵赴喪,遂留吳,以中護軍與長史張昭共掌眾事。
(訳)
建安五年(200)、孫策が薨じ
孫権が事業を統括した。
周瑜は兵を率いて葬儀に赴き
かくて呉に係留すると
中護軍として、長吏の張昭とともに
諸々の事務を掌った。
(註釈)
孫策が亡くなりました。
廬江太守の李術、従兄の孫輔など、
跡を継いだ孫権から離れてく人もいる中
張昭と周瑜がうまくサポートしたというのが
一般的な見解ですが、周瑜伝では
ここから8年後の赤壁の戦いまで
かなりザックリした内容です。
周瑜はその間、何してたの?
5.
十一年,督孫瑜等討麻、保二屯,梟其渠帥,囚俘萬餘口,還備官亭。江夏太守黃祖遣將鄧龍將兵數千人入柴桑,瑜追討擊,生虜龍送吳。十三年春,權討江夏,瑜為前部大督。
(訳)
建安十一年(206)、
孫瑜らを督して麻・保の二屯を討伐し
その総帥を晒し首にして
捕えたり俘虜にした者は一万余口、
官亭に帰還してからは守備を固めた。
江夏太守の黄祖が
将軍の鄧龍に兵数千人を率いさせ
柴桑へと侵入してくると
周瑜は追討して撃ち破り、
鄧龍を生け捕りにして呉へ送った。
十三年春(208)、
孫権は江夏へ討ち入り
周瑜を前部大督とした。
(註釈)
本文はいきなり6年も飛びます。
201〜205年まで
何も書かれてません。
三国志ファンはその
飛ばされた部分こそを
じっくり知りたいのですが……
横山三国志とかでも、周瑜って
赤壁の戦いの直前でいきなり
出てくるイメージがあります。
孫権も
「そうだ、周瑜がいたじゃないか!」
などと、まるで存在を
忘れていたかのような口ぶりで。
実際、正史でも
孫策の死〜赤壁までの8年間
周瑜の記述がスカスカなので
こう書かざるを得なかったのかな。
周瑜って、イメージほど
孫権をサポートしてないんですよ。
「俺は俺でテキトーにやっとくから
なんかあったら呼んでよ」
くらいの微妙な距離感を感じます。
また、206年に
太史慈が亡くなっています。
シギー、死んだらいかんばい。




