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淡々三国志  作者: ンバ
呉書第九、周瑜伝
232/603

註四、江夏落としてなくない?

註4.

臣松之案:孫策於時始得豫章、廬陵,尚未能得定江夏。瑜之所鎮,應在今巴丘縣也,與後所平巴丘處不同。


(訳)

わたくし松之が考えるに、

孫策はこの時始めて

豫章よしょう廬陵ろりょうを得たのであって

いまだなお江夏を平定出来ずにいた。


周瑜が鎮守したという場所は

現代の巴丘はきゅう県に相応し、

後に彼が卒した巴丘はきゅうとは

場所が異なるものである。


(註釈)


裴松之はいしょうしは劉宋に仕えた歴史家で

陳寿の「三国志」に膨大な註釈を

付けたことで知られており、

三国志の第二の著者とも

呼べる存在であります。


基本、フラットな目線で史料を読み

様々な文献から関連記述を引用して

誤謬には容赦なくツッコんでいきます。


簡潔で淡々としている「三国志」は

そんな彼のおかげで、読み物として

三倍くらいは面白くなっているのです。


「三国志演義」も、その記述の多くを

裴松之の註釈から補っています。



本文では「江夏を討った」とあり

孫策伝が引く「呉録」でも

「江夏太守の周瑜」とありますが、

裴松之の言うように、199年時点では

まだ江夏は陥落していません。


孫策(袁術の指示で??)の

親族優先で郡太守になってましたが、

周瑜の領地にする余分がなかったのかな。

箔付けかつ形式的な肩書きのようです。


ここでのコメントは、

周瑜が駐屯した巴丘は揚州で

亡くなった方の巴丘は荊州にあって

名前が同一の別の場所だよ、と。


東京の府中と広島の府中みたいな。

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