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淡々三国志  作者: ンバ
呉書第九、周瑜伝
230/603

三、大喬・小喬

3.

策親自迎瑜,授建威中郎將,即與兵二千人,騎五十匹。瑜時年二十四,吳中皆呼為周郎。以瑜恩信著於廬江,出備牛渚,後領春谷長。

頃之,策欲取荊州,以瑜為中護軍,領導江夏太守,從攻皖,拔之。時得橋公兩女,皆國色也。策自納大橋,瑜納小橋。復近尋陽,破劉勳,討江夏,還定豫章、廬陵,留鎮巴丘。


(訳)

孫策は自ら周瑜を迎えて

建威中郎将の官を授け、

すぐに兵二千と騎馬五十匹を与えた。


周瑜は当時二十四歳であり、

呉中の者は皆、彼を「周郎しゅうろう」と呼んだ。


周瑜が廬江ろこうに於いて

恩徳と信義を明らかにしていた事から、

転出して牛渚ぎゅうしょの防備に当たり

後に春谷しゅんこく(春穀)の長を領した。


これよりしばらく後に

孫策が荊州けいしゅうを奪おうとした際、

周瑜は中護軍となって

江夏こうか太守を領導し、

皖城かんじょう攻めに従軍して、これを抜いた。


この時、橋公きょうこうの二人の娘を得、

いずれも国を傾ける容色があった。


孫策は自ら(姉の)大喬だいきょうを、

周瑜は小喬しょうきょうを納れ(て妻とし)た。


さらに、尋陽じんようへと接近して劉勲りゅうくんを破り

江夏を討伐して

還って豫章よしょう廬陵ろりょうを平定し、

巴丘に留まって鎮守した。




(註釈)

198〜199年の出来事すかね。


袁術が死んだのとか

超ざっくりカットされとる…………


周瑜は江夏こうか太守を領したと言うけれど

実際にはまだ江夏抜いてません。


劉表の江夏太守の

黄祖こうそを破るのに

208年までかかってるので、

形式的なものです。




江東の二張といえば

張昭ちょうしょう張紘ちょうこうですが


江東の二喬といえば

大喬と小喬の姉妹です。



きょうさん家の

姉の方→大喬

妹の方→小喬


関索の嫁の「鮑三娘ほうさんじょう」とか

水滸伝の「扈三娘こさんじょう」や

孫二娘そんじじょう」なんかも

「○○さん家の△番目の娘」という意味で

便宜的な呼び方です。


諱や字で呼ぶのが

失礼に当たるといっても

我々の感覚からすると

「○○家の長女さん」

「佐藤・妹」などという呼び方は

ちょっと淡白に感じられます。


なお、本名(諱)は不明です。


晋書にはけっこう載ってるんですが、

三国志は、女性の名前を基本載せません。



三国志演義では、

赤壁せきへきの戦いの直前にあたって

諸葛亮が周瑜に対し


「曹操は天下を治めたら

大喬と小喬を侍らせたいとか

言ってるらしいから、

二人を差し出せば丸く収まるんじゃない」


と、小喬が周瑜の妻であることを

さも知らないような振りをして述べ、

周瑜を焚きつけるのでした。

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