註十七、高岱
註17.
吳錄曰:時有高岱者,隱於餘姚,策命出使會稽丞陸昭逆之,策虛己候焉。聞其善左傳,乃自玩讀,欲與論講。或謂之曰:「高岱以將軍但英武而已,無文學之才,若與論傳而或云不知者,則某言符矣。」又謂岱曰:「孫將軍為人,惡勝己者,若每問,當言不知,乃合意耳。如皆辨義,此必危殆。」岱以為然,及與論傳,或荅不知。策果怒,以為輕己,乃囚之。知友及時人皆露坐為請。策登樓,望見數里中填滿。策惡其收衆心,遂殺之。岱字孔文,吳郡人也。受性聦達,輕財貴義。其友士拔奇,取於未顯,所友八人,皆世之英偉也。太守盛憲以為上計,舉孝廉。許貢來領郡,岱將憲避難於許昭家,求救於陶謙。謙未即救,岱憔悴泣血,水漿不入口。謙感其忠壯,有申包胥之義,許為出軍,以書與貢。岱得謙書以還,而貢已囚其母。吳人大小皆為危竦,以貢宿忿,往必見害。岱言在君則為君,且母在牢獄,期於當往,若得入見,事自當解。遂通書自白,貢即與相見。才辭敏捷,好自陳謝,貢登時出其母。岱將見貢,語友人張允、沈䁕令豫具船,以貢必悔,當追逐之。出便將母乘船易道而逃。貢須臾遣人追之,令追者若及於船,江上便殺之,已過則止。使與岱錯道,遂免。被誅時,年三十餘。
(訳)
呉録にいう、
時に、余姚に隠棲していた
高岱という者がおり、孫策は出仕を命じて
会稽の丞の陸昭に彼を迎えさせ、
孫策は己を虚しくして候った。
孫策は高岱が左伝(春秋左氏伝)
を善くすると聞き、
そこで自らも玩読して、ともに
その構成について論じようとした。
或る者が言った。
「高岱は、孫将軍がただ
武勇に秀でているのみで
文学の才は無いものと思っております。
もしともに左伝を論じて
彼が『わからない』と云うことがあれば
則ち、某の言葉と符合することになります」
一方で、高岱にはこう謂った。
「孫将軍の人となりは、
自身より勝る者を悪みます。
もし、質問されるたびに
『わからない』と言えば、
将軍の意にかないましょう。
左伝の意義を悉く議論したなら
必ずや危険に見舞われます」
高岱は尤もだと考え、
孫策とともに左伝を論じるに及んで
「わからない」と答えることがあった。
果たして孫策は、自身が
軽んじられていると思って怒り、
高岱を囚えてしまった。
高岱の友人及び、時の人は
みな露座して(赦しを)請うた。
孫策は楼に登り、数里が
(高岱の赦免を望む人々で)
満ちているのを望見した。
孫策は、高岱が人々の心を
収攬していることを悪み、
かくて彼を殺してしまった。
高岱は字を孔文といい、呉郡の人である。
性格は聡明で物事の道理に通じており、
財を軽んじ、信義を貴んだ。
その友好の士には奇才が抜擢され
いまだ世に顕れていない者を選び取って
友となった八人は、皆当代の英偉であった。
太守の盛憲が(高岱を)上計に任じ
孝廉に推挙した。
許貢が来たりて郡を領有すると
高岱は盛憲を引き連れて
許昭の家へと避難し、陶謙に救援を求めた。
陶謙が即座に救援しなかったため
高岱は憔悴して血の涙を流し、
水漿(飲み物)を口にしなかった。
陶謙は彼の忠義に感じ入り、
申包胥の義を有しているとして
援軍を出すことを許可し、
許貢へ書状を与えた。
高岱は陶謙の書状を得て還ると
許貢が高岱の母を囚えていた。
呉の人は大小ともに皆
許貢の宿怨を危ぶみ竦んで、
往けば必ず害されると見なした。
高岱は言った。
「主君が在れば、則ち主君の為。
かつ、母が牢獄に在り
私が往くのを待っている。
もし私が入城したのを見れば
この事態は自ずと解かれるだろう」
かくて陶謙の書状を通達して自ら告げ、
許貢は即座に高岱と相見えた。
その言葉は敏捷で、好く自ら陳謝し
許貢は即刻、高岱の母を牢から出した。
高岱は許貢に見えようとする際、
許貢が必ずや後悔して
追ってくるだろうと考え、
友人の張允・沈䁕に語り
予め船を準備させていた。
高岱は退出すると
すぐに母を連れて船に乗り、
道を易えて逃げた。
許貢は須臾にして人を遣り
高岱を追わせた。
追わせた者には、
もし高岱の船に追い付いたら
海上ですぐに殺し、
已に過ぎ去っていたら
(追いかけるのを)止めるよう命じた。
許貢の使いは
高岱の辿った道を錯誤し、
かくて高岱と母は免れた。
孫策に誅された時、年は三十余だった。
(注釈)
「或る者」セコイっすねー。
孫策は高岱が
「春秋左氏伝」を好むと聞いて、
一緒に左伝の議論に花を咲かせようとします
しかし「或る者」が
孫策には
「高岱は孫策さんのことを
バカだと思ってるから、
こっちから左伝の話題振っても
『わからない』って答えるはずだよ」
高岱には
「孫策さんは、自分より
優秀な人間を憎むような人だから
左伝の話をまともにしない方がいい、
話振られたら、
『わからない』って答えた方が
警戒されなくて済むよ」
と伝えて、
孫策に高岱を殺させました。
孫策と高岱のどっちか、
もしくは両方に怨みのある
人間なんですかね。
孫策は急激に勢力を拡大したため
反感を持っている者も一定数いたという
傍証になりそうな描写です。
許貢は
朝廷から任命された呉郡都尉です。
孫堅伝の引く會稽典錄にある
周喁を殺害した記述からも
袁紹チームに属してないことは明らか。
ということは、
朝廷が寄越した揚州刺史の
劉繇派閥だったと見ていいのかな。
徐州牧の陶謙や、許靖などとも
繋がりがあったようで
なかなか興味深い人物です。
彼が孫策を警戒して
朝廷に上奏文を送った旨を
数ページ後に紹介致します。




