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淡々三国志  作者: ンバ
呉書第一、孫討逆(孫策)伝
210/603

註十四、劉表軍団ボッコボコ

註14.

江表傳曰:策被詔勑,與司空曹公、衞將軍董承、益州牧劉璋等并力討袁術、劉表。軍嚴當進,會術死,術從弟胤、女壻黃猗等畏懼曹公,不敢守壽春,乃共舁術棺柩,扶其妻子及部曲男女,就劉勳於皖城。勳糧食少,無以相振,乃遣從弟偕告糴於豫章太守華歆。歆郡素少穀,遣吏將偕就海昏上繚,使諸宗帥共出三萬斛米以與偕。偕往歷月,纔得數千斛。偕乃報勳,具說形狀,使勳來襲取之。勳得偕書,便潛軍到海昏邑下。宗帥知之,空壁逃匿,勳了無所得。時策西討黃祖,行及石城,聞勳輕身詣海昏,便分遣從兄賁、輔率八千人於彭澤待勳,自與周瑜率二萬人步襲皖城,即克之,得術百工及鼓吹部曲三萬餘人,并術、勳妻子。上用汝南李術為廬江太守,給兵三千人以守皖,皆徙所得人東詣吳。賁、輔又於彭澤破勳。勳走入楚江,從尋陽步上到置馬亭,聞策等已克皖,乃投西塞。至沂,築壘自守,告急於劉表,求救於黃祖。祖遣太子射船軍五千人助勳。策復就攻,大破勳。勳與偕北歸曹公,射亦遁走。策收得勳兵二千餘人,船千艘,遂前進夏口攻黃祖。時劉表遣從子虎、南陽韓晞將長矛五千,來為黃祖前鋒。策與戰,大破之。


(訳)

江表伝にいう、

孫策は詔勅しょうちょくを被り、

司空の曹公、衛将軍の董承とうじょう

益州牧の劉璋りゅうしょう等と力を合わせて

袁術・劉表の討伐に向かった。


軍勢を整えて進発しようという時

ちょうど袁術が死に、

袁術の従弟の袁胤えんいん、娘婿の黄猗こういらは

曹公を懼れ、思い切って寿春を守ろうとせず

袁術の棺桶を担いで、その妻子及び

部曲の男女を扶け、かん城の劉勲りゅうくんに就いた。


劉勲のもとは食糧が少なく、

互いに救うことができなかった。

そこで、劉勲は従弟の劉偕りゅうかいを遣って

豫章よしょう太守の華歆かきんに米の買付を訴えた。


華歆の郡でも素より穀物は少なく、

吏人を劉偕に就けて海昏かいこん上繚じょうりょうへ派遣し

諸々の宗帥らに三万斛の米を

供出させて、劉偕へ与えた。


劉偕が派遣されてから一ヶ月経っても

わずかに数千斛の米しか得られなかった。


劉偕はそこで、劉勲へつぶさに状況を報告し、

劉勲を直接来させて(宗帥らを)襲撃し、

兵糧を奪い取るように説いた。


劉勲は劉偕の書状を得てすぐ行動に移し、

密かに軍を海昏のむらのもとまで至らせた。


宗帥らはこのことを知ると

城壁を空にして逃げ隠れ、

劉勲は終ぞ何も得られなかった。


この時孫策は

西の黄祖こうその討伐に当たっていたが、

石城まで行くに及んで、劉勲が

軽装で海昏へ向かった事を聞くと

すぐに別働隊を遣り、

従兄の孫賁そんひと(その弟の)孫輔そんほ

八千人を率いさせ、

彭沢ほうたくにおいて劉勲を待ち伏せさせ、

自らは周瑜しゅうゆとともに

二万の歩兵を率いて皖城を襲撃し、

即座にこの拠点を破って

袁術の百工及び楽隊の部曲三万余人、

併せて袁術と劉勲の妻子を得た。


孫策は上奏して、汝南の李術りじゅつ

廬江ろこう太守として用い、

兵三千人を供給して皖城を守らせ、

捕えた者たちは皆移転させ

東部の呉を詣でさせた。


一方、孫賁と孫輔は彭沢で劉勲を破った。


劉勲は敗走して楚江へと入り、

尋陽じんようから歩いて置馬亭ちばていまで上ったが

孫策らがすでに皖を降したと聞き、

そこで、西塞へ身を投じた。


劉勲はまで至ると、

とりでを築いて自衛し、劉表に急を告げ、

黄祖に救援を求めた。


黄祖は太子の黄射こうしゃを派遣し、

五千人の船団とともに劉勲を救援させた。

孫策は復た攻勢をかけ、劉勲を大破した。


劉勲は劉偕とともに

北の曹公のもとまで落ち延び、

黄射もまた遁走していった。


孫策は劉勲の兵二千余と船千艘を得、

かくて前進して夏口の黄祖を攻めた。


当時劉表は

従子の劉虎りゅうこ・南陽の韓晞かんきが率いる

長矛の五千を遣り、黄祖の前衛としていた。


孫策はこれと戦い、大破した。


(註釈)

呂布への使者   → 韓胤

袁術の従弟    → 袁胤

袁術の廬江太守  → 劉勲

袁術の大将軍   → 張勲

袁術の主簿    → 閻象えんしょう(袁紹と被る)



袁術の配下のやつ、

いちいち名前が紛らわしいような……

改名してください。



劉璋りゅうしょうも袁術討伐に

加わっていたというのは初耳です。

劉璋がいるの、遠い遠い蜀なのに。


成都せいとから襄陽じょうようで500km以上、

これはまだ現実的な範囲ですが、

寿春じゅしゅんまでは1000km以上離れてる筈です。

さすがに厳しくないでしょうか。

漢中に張魯ちょうろもいるのに。


司馬懿は500kmの道のりを

昼夜兼行で8日で移動したらしいですが

当時の軍隊が1日60kmも移動できるの?


絶対テキトーに書いてると思います。


ここでは

「孫策は袁術を攻撃する手筈だったが

実行に移す前に袁術は死んでしまった」

って事になってますけど、


江表伝は、

孫策を袁術アンチに回しながら

「孫策は袁術を攻めて《《いない》》」

という事実だけは動かさない。


逆に言うと、

孫策と袁術が決裂していないのは

孫策アゲアゲの江表伝でも覆せない事実。



本文では、袁術が死んだ後

その残党は孫策を頼ろうとして

劉勲に邪魔されていましたが、


江表伝では劉勲と孫策の順序が逆。

邪魔した方がアンチ袁術に見えてしまう。


前者は劉勲、後者は孫策です。



また、

糶……米を売る

糴……米を買う


という意味だそうです。

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