註十三、結局孫堅の没年は
註13.
臣松之案:本傳云孫堅以初平三年卒,策以建安五年卒,策死時年二十六,計堅之亡,策應十八,而此表云十七,則為不符。張璠漢紀及吳歷並以堅初平二年死,此為是而本傳誤也。
江表傳曰:建安三年,策又遣使貢方物,倍於元年所獻。其年,制書轉拜討逆將軍,改封吳侯。
(訳)
わたくし松之は考える、
本伝(三国志)では、
孫堅が初平三年(192年)に
卒したと云っている。
孫策は建安五年(200年)に卒し、
死んだ時は26歳である。
孫堅の亡くなった年から計算すると
孫策は当時、18歳という事になるが、
江表伝では17歳と云っており、
本伝と符合しない。
張璠の漢紀及び、吳歷では
揃って孫堅が初平二年(191年)に
死んだものとしており、
こちらの説が正しく、
本伝の方が間違っているのである。
江表伝にいう、
建安三年(198年)、孫策は再び
使者を遣わして土地の産物を貢いだ。
その年、制書によって
孫策を拝して討逆将軍に転じ、
改めて呉侯に封じた。
(註釈)
霊帝が没したあとの元号は
こんな感じになっております。
189 永漢元年、中平元年
190 初平元年
191 初平二年
192 初平三年
193 初平四年
194 興平元年
195 興平二年
196 建安元年
220 建安二十五年、延康元年
漢紀、呉歴、江表伝、資治通鑑は
すべて初平二年に
孫堅が亡くなったと記しています。
やはり、孫堅の死は192年でなく
191年とする方が適切のようで。
193年って書いてる
英雄記の信憑性が下がりました。
呂布の一騎打ち、謎の高順推し、
反董卓連合に加わる劉備など
あれはやっぱり王粲の
創作戦記小説みたいですね。
孫堅は155年生まれ、
191年に亡くなったとき、数えで37歳。
孫策は175年生まれ、
191年当時は数え17歳で、
亡くなった200年の時、26歳。
これでソロバンが合いました。




